前書き

かつて、心の清らかで善良な人々がこの世の苦難に遭うのを見るたびに、私は「まるで
天使が地獄に落ちてしまったようだ」と感じたものでした。そうした時、いつも考えずに
はいられなかったのです。もし天使が地獄に落ちたなら、どうすればその純粋さと善行を
守り抜き、悪や苦難に傷つけられることなくいられるのだろうか、と。一体どのように考
え、どのように行動すれば、本来の静けさと喜びを保ち、この世を厭わず(いとわず、嫌
わずに)、また堕落や崩壊からも避けられるのだろうか、と。

仏法を修証する前(つまり、修行して悟りを得る前)、私は仏教の中に「菩薩」という
存在がいると聞いていました。彼らは生死の輪廻(生まれ変わりを繰り返すこと)から解
脱(迷いの世界から自由になること)の彼岸に達した覚者(悟りを開いた者)であり、す
でに永遠の極楽(苦しみのない理想の世界)の地に安住する力を持っています。しかし、
それでもなお、苦難の輪廻に閉ざされた衆生(すべての生きとし生けるもの)を救おうと、
自らの願いを携えてこの世に再び生まれてくる(これを「乗願再来」という)のです。時
には最も苦しみの多い三悪道(地獄・餓鬼・畜生の世界)にさえ足を踏み入れるというの
です。彼らは、三界(欲界・色界・無色界、私たちの迷いの世界)を超越しようという確
固たる信念と正見(正しい知見)、智慧を備えています。しかし、この世での修行が未完
成である間は、迷い続ける衆生と共に欲望を体験し、その共業(多くの衆生が共通して背
負う業の結果)による試練や苦しみを共に味わいます。それでも、自分自身がどれほど辛
く困難な状況にあろうとも、彼らは必ず他者を利益し、衆生を輪廻から解脱させることを
最優先するのです。

かつて私はこう思っていました。自分自身の心身がまだ苦痛に苛まれている者が、どう
して絶え間なく発願(ほつがん、仏道を志して誓いを立てること)して衆生を救い利益す
るなどということができるのか、と。そんな生き方はまさに悪夢のような苦行ではないか、
と。それでは、これらの菩薩たちは、自らの覚受(感じている苦楽の感覚)と苦しみをど
う観るのか。どうのようにして心の平静を取り戻すのか。彼らが自分自身の欲望と苦しみ
の波を乗り越え、世の中の様々な誘惑や煩悩(ぼんのう、心を悩ませる働き)に打ち勝ち、
使命を全うした後でさえ、なお仏果(如来の境地、仏としての悟り)を成就し得るのは、
一体何故なのでしょうか。

こうした疑問は、私が『金剛経』に出会ってからようやく氷解しました。「一切の相を
離れ、一切の善行を行えば、即ち無上正等正覚を得る」という空性の正見は、あたかも鋭
利な剣が、私の「相」への執着から生じる疑念と煩悩をたちまち断ち切るかのようでした。
それはまた、一道の閃光が瞬時にして、私の中にある三悪道の闇を照らし破るかのようだ
ったのです。

さあ、これから一緒に耳を傾けていきましょう。二千六百年以上前、仏陀の大弟子であ
る阿難尊者が伝えた『金剛経』の物語に。

コメントする