心の軌跡を綴る随筆 (1of2) —世俗への帰還
仏法への執着と修証が深まり、特に定力(じょうりき)が強まるにつれて、雑念はますます減っていきました。心境は清らかになり、心が広がり、耐え忍び包容することができるようになりました。一つの事に集中できるようになり、時には「今ここを生きる」喜びを体験できるようになり、次第に修証の醍醐味、すなわち「法味(ほうみ)」を自ら味わい始めました。生活の中のすべての出来事を仏法の智慧で解決するにはまだ至っていませんでしたが、迷いの多くは習気と欲望の不浄によるものだと気づき、迷いや煩悩の中から自分自身を素早く救い出せるようになりました。この世の本質が幻であるということがますます明確に見えるようになり、志は高くなり、自分の多くの考えや見地について、周りの「愚かな人たち」と語り合うことすら面倒に感じるようになりました。世の人が皆酔っている中で自分一人だけが目覚めているような感覚を抱き、身も心も清浄で、気骨が凛としていました。もはや一日三食のためや、この肉体の欲望を満たすために頭を下げることはなくなり、金銭や名利を糞土のごとく見なし、食事の善し悪しや服装についていちいち分別して気にするのも面倒になりました。時には空腹のまま過ごすことも珍しくなくなり、生活に何の苦しみも感じず、この世界への未練もほとんどなくなっていきました……。私は次第に「成熟期」へと入っていったのです。
この時期、習気と欲望はまだ取り除かれておらず、道を成就することへの貪欲さと執着は、世俗の中での貪欲さよりも神聖であるというわけではありませんでした。それどころか清浄であることを貪り求め、世間の事に深く関わることを嫌がりました。気の合う同道者に対しては大風呂敷を広げて語りたがり、その見地や理論は深遠で計り知れず、まるで仏菩薩が再来したかのように振る舞い、「我慢(慢心)」が影のように付きまとっていました……。
次第に、私はこうした自分自身の状態が当てにならないものだと感じるようになりました。世俗の多くの矛盾に対して、私たちはまだ清らかな心で向き合い、調和的に処理することができていません。時には欲望や習気に鼻面を引き回され、他人の自分に対する評価や見方をまだ気にしていました。ただ特定の問題に関して分別や執着をしなくなっただけで、「我執(がしゅう)」は未だ打ち破られていなかったのです。常に「私(自我)」という存在が自分自身を妨げており、宇宙や自然、衆生と真に一つになること、すなわち「道と合一する」ことができませんでした。衆生と一つになり、「無我相・無人相・無衆生相」に達することができなければ、私たちは結局のところ、万法の源を真に徹見し、万事万物の本質や真理を徹底的に明らかにする事はできません。「廬山(ろざん)の真面目を識らざるは、只身の此の山中に在るに縁(よ)る」という言葉の通りです。そして我執を打ち破るには、私たちは博愛と慈悲を持たなければなりません。円満を求めるなら、あなたが語り合うことを嫌がっていたあの「愚かな人たち」こそがあなたを助けてくれるのであり、衆生だけがあなたを成就させてくれるのです。そして私たちは「円満期」へと入り始めます。覚照が朗らかになり、自らのすべての起心動念を徹底的に修正していく過程は、骨を削って毒を取り除き、身を捨てて義を取るような壮絶な覚悟を伴います。自我が死ななければ、大道は現れません。私たちは世俗(紅塵)へと帰り、心の道のりを再び一から始めます。平凡で普通な存在となり、その平凡さの中から偉大さを体得し始め、真に無私で衆生を利益する菩薩(ぼさつ)になり始めるのです。「同体の大悲、無縁の慈」が、世俗の日常のほんの些細な出来事一つ一つの中から生じてきます。
この時になって初めて、真の功徳が生じ、功徳の利益が瞬時に顕現するのです。
水流れ、花開く。
楊寧