時に、長老須菩提は大衆の中に在り。即座に座より起ち、ひとえに右の肩を袒(はだぬ)
ぎ、右の膝を地につけ、合掌恭敬し、仏に白(もう)して言わく、「稀有なり世尊、如来は
善く諸々菩薩を護念し、善く諸々の菩薩に付囑したまう。世尊よ、善男子、善女人が阿耨
多羅三藐三菩提の心を発するに、まさにいかんが住すべきや。いかんが其の心を降伏すべ
きや。」仏は言いたもう、「善いかな、善いかな。須菩提よ、汝の説くところの如く、如
来は善く諸々の菩薩を護念し、善く諸々の菩薩に付囑す。汝は今諦(あきら)かに聴け、
まさに汝が為に説くべし。善男子、善女人が阿耨多羅三藐三菩提の心を発するに、まさに
かくの如く住し、かくの如くその心を降伏すべし。いいしかり。世尊よ、願わくは聞かん
と欲す。」
第二品では、仏が『金剛経』を説かれたきっかけ、つまりどのような理由で説法が始ま
ったのかが紹介されています。それは、須菩提という長老が仏に問いかけた一つの質問に
始まります。その時、須菩提長老は仏が座につかれたのを見ると、大衆の中から立ち上
がり、当時の僧伽(そうぎゃ、修行者の集団)の作法に従って右肩を露出しました(右腕
を衣の外に出す服装です)。そして右膝を地につけ、仏に向かってひざまずき、合掌して
こう言いました。「まれなる世尊よ、如来は常に巧みに様々な法門(ほうもん、教えへの
入り口となる様々な方法)を示され、すべての菩薩たちが正念(正しい心の念)を保てるよ
う導いておられます。」経文にある「善護念諸菩薩、善付囑諸菩薩(善く諸菩薩を護念
し、善く諸菩薩に付嘱したまう)」という一節のうち、「善護念」とは正しい念を守り、
心を清らかに保つこと。「善付嘱」とは、菩薩たちに教えを説き、繰り返し注意を促すこ
とを意味しています。
須菩提は世尊を讃嘆した後、続けて「ただ今、一つの疑問がございます。どうか世尊、
ご教示くださいますよう御願いします。もし善男子・善女人(仏道を志す善い男女)が、
無上菩提(むじょうぼだい、最高の悟り)を求めようと発心(ほっしん、仏道を志すこと)
したならば、いかに自分の心を安住(あんじゅう、落ち着けて保つこと)させるべきでし
ょうか。また、いかにして内なる妄念(もうねん、迷いの雑念)と煩悩を調伏(静めて従
わせること)すべきでしょうか。」と、問いました。
須菩提は仏の十大弟子の一人であり、後世では「解空第一」、すなわち「空の理解にお
いて最も優れた者」と称されました。これは、彼が仏の説く空性の智慧を深く体得してい
たことを意味します。この時、須菩提は善男子・善女人に代わって、この問いを提起しま
した。もちろん、この問いを抱く者には、仏の阿羅漢弟子たちも含まれています。仏法の
修学を始めたばかりで、仏果を目指す者にとって、最大の煩悩は心の不安定さです。心が
揺れ動き、五欲の誘惑に抵抗できず、身心がさまざまな覚受(かくじゅ、感覚や体験)や
境界に左右されてしまいます。一方、定力を備えた阿羅漢にとっての煩悩は、この世界と
自分の身体に対する厭離(おんり、嫌い離れようとする心)から生じます。無上正等正覚
(むじょうしょうとうしょうがく、最高の完全な悟り)を成就するには、菩薩道を実践し
なければなりません。では、どうすればこの世界に安住し、柔和で慈愛に満ちた心で菩薩
道を広く行い、さまざまな善巧方便(ぜんぎょうほうべん、上手な方法や手段)をもって
衆生を救えるのでしょうか。阿羅漢たちは定力によって、世俗の虚妄な楽しみに心を惑わ
されることも、境界に左右されることもありません。しかし、「寂滅為楽(じゃくめつい
らく、煩悩のない静かな境地を最高の喜びとすること)」という心境から、慈悲心を起こ
して積極的に世間に関わっていくことは、容易ではありません。とはいえ、慈悲と智慧は
「空性」の表裏一体です。慈悲を伴わない空性は、仏の説く「真空」の境地とは言えませ
ん。
仏は須菩提をお讃めになり、仰いました。「善哉(よきかな)、須菩提よ。あなたの問
いは、実に適切であります。私は常々、弟子たちに、無上正等正覚の菩提心を起こし、常
に自らの正念を護り持ち、清らかな心を失わないようにと説いてきました。さて、善男子、
善女人がもし無上正等正覚の仏果を求めて心を発するのであれば、『かくの如く(如是)』
安住し、『かくの如く(如是)』心を降伏すべきです」。ここでの「かくの如く」とは、
まさにこのように心を安住させ、まさにこのように自らの内なる煩悩や乱れを調伏してい
くべきである、という意味です。
仏はここで、話をいったん止めました。もし心が清らかな仏弟子であれば、『金剛経』
の始まりから、仏が静かに座って見せた一連の行動を通して、すでに「無所住(むしょじ
ゅう)」という仏の境地に気づいたかもしれません。無所住とは「何にもこだわらないこ
と」です。その心は何ものにもとらわれず、とても澄んでいて、ただやるべきことをやる
だけです。「如是(にょぜ)」とは、「あるがままでいい」という意味です。あなたが質
問しているその心が、そのまま安住しているなら、それでいいのです。どうしてさらに心
を降伏する必要があるでしょうか。しかし、中にはこの無言の教えから学べない弟子もい
ました。そこで須菩提が言いました「唯然、世尊。願楽欲聞(いいしかり。世尊よ、願わ
くは聞かんと欲す)」。この「唯然(いぜん)」という言葉は、「はい」と軽く返事をす
る、あるいは少し黙って考える様子を表します。つまり須菩提は、「世尊、私は喜んであ
なたの教えを聞く準備ができています」と述べたのです。
この後、仏は修行の方法と正しい見地について、詳細に説き明かしていかれるのです。