心経

『金剛経』の後半における仏と須菩提の問答では、弟子たちは「如来の真空境界」に安住することによって、仏が説かれた一切の真実を悟る必要があります。ここで私たちは、誰もがよく知る「般若」智慧の核心となる大切な教え——『般若波羅蜜多心経』を思い起こします。

『心経』の中で、観自在菩薩は仏弟子の中でも智慧第一とされる舎利子に対して、次のように説かれました。

一、「如来の真空境界」とは、諸法が生ぜず滅せず、垢つかず浄まらず、増さず減らないことをいいます。それは、諸法の本質が「空」であるからです。

二、「如来の真空境界」とは、色・受・想・行・識という五蘊さえも存在しないことを指します。

三、「如来の真空境界」とは、眼・耳・鼻・舌・身・意という六根がないことをいいます。

四、「如来の真空境界」とは、色・声・香・味・触・法という六塵がないことをいいます。

五、「如来の真空境界」とは、眼界がなく、ひいては意識界もない、すなわち十八界が存在しないことです。

六、「如来の真空境界」とは、無明そのものが無い状態です。それは無明を修行によって尽くすのではありません。なぜなら、無明も本来は空だからです。

七、「如来の真空境界」とは、老死そのものが無い状態です。それは老死を修行によって尽くすのではありません。なぜなら、生・老・病・死も本来は空だからです。

八、「如来の真空境界」とは、苦・集・滅・道という四聖諦さえも存在しないことをいいます。

九、「如来の真空境界」とは、得るべき智慧もなく、この世に得られるわずかな法もないということです。

十、一切の相が虚妄であると悟るこの智慧によって、大菩薩は心に何のわだかまりもなく、煩悩や得失、恐怖もなく、すべての顛倒夢想から遠く離れ、涅槃を証得することができます。

十一、諸法の空を証得すれば、万法を示現する際にも、色と空は不二です。

十二、過去・現在・未来のすべての仏は、この智慧によって無上正等正覚を得られたのです。

十三、したがって、「諸法無我」「自性空」という般若の智慧は、偉大な真言(マハー・マントラ)であり、輝かしい真言であり、比類なき最高の真言であり、一切の苦を取り除く、真実で虚妄ならざるものなのです。

十四、ゆえに、「般若波羅蜜多の真言」が説かれています。すなわち、真言は次のとおりです。「羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提僧莎訶(ぎゃていぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ぼじそわか)。」この真言の意味は、「来たれ、来たれ、速やかに仏の般若の智慧を悟り、我と共に輪廻の此岸より解脱の彼岸へと至らん」と伝えられています。

『心経』と『金剛経』は、いずれも仏の般若の智慧を説いた経典であり、一方はその智慧の核心を、もう一方はその総綱を示しています。般若の智慧を説く経典は漢訳で六百巻以上もあり、それらはまとめて『大般若波羅蜜多経』と呼ばれます。『心経』と『金剛経』は、いずれもこの六百巻の中から抜き出されたものです。

さて、『心経』について触れた以上、ここではその全文(唐・玄奘三蔵の訳本に基づく書き下し文)を聞いてみましょう。

観自在菩薩は深般若波羅蜜多を行じしとき、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。

舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。受・想・行・識もまたまたかくのごとし。

舎利子よ、是の諸法の空相は、生ぜず滅せず、垢つかず浄からず、増さず減らず。ここをもって、空中には色なく、受・想・行・識なく、眼・耳・鼻・舌・身・意なく、色・声・香・味・触・法なく、眼界なく、乃至、意識界なし。無明なく、また無明尽なく、乃至、老死なく、また老死尽なし。苦・集・滅・道なく、智なく、また得るところなし。

得るところないを以ての故に、菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙なし。罣礙ないが故に、恐怖あることなく、一切の顛倒夢想を遠離し、究竟涅槃す。

三世の諸仏も、般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。故に知ぬ、般若波羅蜜多は、これ大神咒、これ大明咒、これ無上咒、これ無等等咒にして、能く一切の苦を除く。真実にして虚しからず。

故に般若波羅蜜多の咒を説く。即ち咒に説いて曰く、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提僧莎訶(ぎゃていぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ぼじそわか)。

『般若心経』の冒頭には、「観自在菩薩が深般若波羅蜜多を行じたとき」とあります。ここで「行じた」とは、座禅の修行だけを指すのではありません。仏の般若智慧に従って、一切の相に執着せずに布施や忍辱など六波羅蜜の修行を行うことを意味します。そうすることで、菩薩ははじめて我執を破り、「能観(観る者)と所観(観られるもの)」、「能照(照らす智慧)と所照(その智慧が照らす対象)」という対立を超え、最終的に「五蘊(ごうん)はすべて空である」と見抜くことができるのです。だからこそ、観自在菩薩は舎利子に向かって、如来の真空の境地を説かれました。如来の真空の境地に立つと、すべての現象は虚妄で実体がない、つまり「色即是空(色はすなわち空)」であると見えます。あらゆる「相」は、その本性において空です。ですから、相を見ることがそのまま空性を見ることになります。また、万法を捨てた後に別に空があるわけではありません。空そのものが色として現れているのです。これが「空即是色(空はすなわち色)」です。如来の果位の境地から見れば、色と空はもともと一つ(色空不二)です。受・想・行・識の他の四つの蘊(うん)も、同じようにこの「色空不二」の完全な本質を備えています。しかし、この道理を体得するには、仏の教えに従って実際に修行しなければなりません。求めようとする心や得ようとする心が完全に尽きたとき、はじめて「すべての相は虚妄である」という如来の真空の境地に本当に達することができます。そして、「心・仏・衆生は三つとも本来平等で差別がない」という平等心を得て、円満な認識が完成されるのです。

次に、『般若心経』の重要な概念について、幾つか説明いたします。

五蘊(ごうん)

仏教では、世界と生命は「色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)」という五つの要素によって構成されると説きます。これらを総称して「五蘊」と呼びます。

色蘊(しきうん)は物質的要素を指し、「地・水・火・風」の四大から構成されます。世界の一切は、これらの「色」の一時的な組み合わせに過ぎません。その組み合わせは絶えず生滅変化するため、人々は物質の「成・住・壊・空(じょう・じゅう・え・くう、物事が生じ、維持され、壊れ、空になる四つの段階)」や、生命の「生死輪廻」を観ることになります。人間において、「色蘊」は内色(眼・耳・鼻・舌・身の五根)と外色(色・声・香・味・触の五境)に分けられます。

受蘊(じゅうん)は、外界が眼・耳・鼻・舌・身の五根に作用することで生じる、痛みやかゆみ、苦しみや楽しみ、憂いや喜び、好みや嫌悪といったあらゆる覚受(かくじゅ)を指します。いわば、人の心理活動です。

想蘊(そううん)とは、外界の事物に対して生じた覚受を分析・判断し、知覚や表象(イメージ)としてまとめ上げる理性的な概念作用です。例えば、人が自動車のクラクションの音を聞き、「これは車の音だ」と判断し、それに名称を与える働きが、まさにこの想蘊に当たります。

行蘊(ぎょううん)とは、外界に対する認識に基づいて生じる行動の意志、すなわち心理的な活動・意志活動を指します。行蘊によって生じる心は、私たちの身・口・意を駆り立てて「業」を造る主要な力、またその原因となります。

識蘊(しきうん)とは、人の総合的な意識のことであり、すなわち受・想・行の三蘊が集まってできる、対象に対する覚知と分別です。つまり、認識の機能とその結果を指します。

六根・六塵・十八界

六根と六塵は合わせて十二処(じゅうにしょ)と呼ばれます。六塵とは、色・声・香・味・触・法であり、六根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意を指します。六根を「内六処」、六塵を「外六処」と呼び、合わせて十二処となります。したがって十二処とは、眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処・色処・声処・香処・味処・触処・法処です。

十八界とは、この十二処に六識(認識作用)を加えたものです。六識とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識を指します。

十八界の内容は以下のようになります。

眼界と色界が合わさることで眼識界が形成されます。

耳界と聲界が合わさることで耳識界が形成されます。

鼻界と香界が合わさることで鼻識界が形成されます。

舌界と味界が合わさることで舌識界が形成されます。

身界と觸界が合わさることで身識界が形成されます。

意界と識界が合わさることで意識界が形成されます。

苦・集・滅・道(四聖諦)

四聖諦とは、仏が説かれた四つの真理を指します。その内容は、苦(く)、集(じゅう)、滅(めつ)、道(どう)です。

苦について:

仏教では、三界の衆生にとって、三界はすべて苦海であると説き、その苦をさらに三種に分類します。

苦苦(くく)とは、衆生が常に飢えや寒さ、恐怖、刑罰などに苦しみ、喜びのほとんどない状態をいいます。地獄・餓鬼道の衆生はこの苦を最も強く体験しています。この苦は欲界の衆生にはありますが、色界・無色界にはありません。

壊苦(えく)とは、あらゆる事物の無常な変化によって生じる苦しみです。例えば、病気、老い、財産や愛情の喪失、死などが挙げられます。この苦は欲界と色界の衆生にはありますが、無色界には身体がないため、この苦はありません。

行苦(ぎょうく)とは、生命を含む一切が絶え間なく変化し続けていることを自覚し、永遠の生命を求めても決して得られないことによる苦しみです。この行苦は三界すべてにありますが、欲界の衆生はその苦を深く自覚することが少なく、あるいはまったく気づかないこともあります。一方、色界・無色界の衆生はこの苦に対する理解が深いとされています。

人間の世界においては、苦はさらに八苦(はっく)に分けられます。すなわち、生苦(しょうく)・老苦(ろうく)・病苦(びょうく)・死苦(しく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・愛別離苦(あいべつりく)・求不得苦(ぐふとくく)・五蘊熾盛苦(ごうんしじょうく)です。

生苦とは、人が胎内に宿り、生まれるときに味わう苦しみです。赤ん坊は感じていますが、ただ言葉にできないだけです。やがて話せるようになると、胎内や出産の苦しみの記憶は忘れ去られます。

老苦とは、人が老年期に入り、髪が白くなり、歯が抜け、筋肉が衰え、五官の感覚が鈍り、知恵が減退し、病がちになって日ごとに衰え、死に近づいていく苦しみです。

病苦とは、人がさまざまな病気の苦痛を受ける苦しみです。一生の間に一度も病気を経験しない人はほとんどいません。

死苦とは、人が最終的に死を迎える苦しみです。人にとってはどのような原因で死ぬとしても、それ自体が苦であると説かれます。

怨憎会苦とは、嫌いな人や憎む相手と、縁があるために離れられず、会わなければならない苦しみです。心の中では離れたいと思っても、どうしても分かれることができず苦しみます。

愛別離苦とは、自分が愛する人と必ず分かれなければならない苦しみです。会えない、別れなければならない、死別による痛みなどです。

求不得苦とは、人がさまざまな欲望に駆り立てられて何かを求めるが、それを得られないときに生じる苦しみをいいます。

五蘊熾盛苦五蘊とは色・受・想・行・識です。五蘊熾盛苦とは、前述の七苦が集まり、積み重なることで生じる総合的な苦しみです。人は生老病死の苦を避けることはできず、怨憎会苦・愛別離苦・求不得苦を程度の差はあれ誰しも経験します。それらが最終的に集積され、五蘊熾盛苦として満ちていくのです。

このように仏は弟子たちに法を説かれ、最初に「苦」の真理を明かされました。弟子たちがこの苦から離れ、輪廻を超えて解脱できるようにするためです。

集について:

四聖諦の第二の真理は「集諦」です。集諦とは、さまざまな原因が集まり、衆生に苦しみの結果をもたらすことを意味します。そして、その原因を一つにまとめると、根本にあるのは「貪・瞋・痴」の三毒です。

貪は、三界に対する執着・愛着です。貪によって、衆生は永遠に満たされることがありません。

瞋は、三界の中で好ましくないものに対して生じる憎しみや怒りです。瞋は、他者への恨みや悪意を生み出します。

痴は、円満な智慧を欠いた状態を指します。痴によって、衆生は世界や自己に対して誤った・一面的な認識を持ちます。

衆生は貪・瞋・痴の三毒の働きによってさまざまな業を積み、その業に導かれて生死を繰り返し、三界の中で苦しみの果報を受け続けます。

仏は人が多くの因縁を備えて生まれ、やがて死に至るまでの流れを「十二縁起(じゅうにえんぎ)」として説かれました。その内容は次のとおりです。無明(むみょう)→行(ぎょう)→識(しき)→名色(みょうしき)→六処(ろくしょ)→触(そく)→受(じゅ)→愛(あい)→取(しゅ)→有(う)→生(しょう)→老死(ろうし)。

「十二縁起」とは、私たちが「なぜ人は老い、死ぬのか」と仏に問うたとき、仏は「生があるから老死がある」と説かれたことに由来します。

では、なぜ生があるのでしょうか。仏は、「有」があるからだとお説きになりました。ここで言う「有」とは、業力を有している状態、すなわち、業の力に引き寄せられ、身を委ねるしかないような存在状態を指します。では、なぜ業を有しているのでしょうか。仏は、それは「取」があるからだと説かれました。「取」とは、衆生が色・声・香・味・触という五欲に対して、執着し、求め、得ようとする心を意味します。こうした執着と獲得への欲求が、さまざまな業を生み出していくのです。

では、なぜ執着するのでしょうか。それは「愛」、すなわち欲望があるからです。なぜ欲望が生まれるのでしょうか。それは人があらゆる感官と心によって外界に触れ、感じるからです。なぜ感覚(受)が生まれるのでしょうか。それは触境があるからです。

触境とは何でしょうか。それは、人に眼・耳・鼻・舌・身・意という六根があることに由来します。これらの六根が外の世界と向き合うとき、仏法ではその対象を六塵、すなわち色・声・香・味・触・法に分類します。この六根と六塵が接するとき、私たちの心には分別や執着が生じます。この状態を仏法では「六処」と呼びます。

なぜ「六処」があるのでしょうか。それは「名色」があるからです。「名色」とは「自我」を指します。世間の多くの衆生は、凡夫は、この生滅を繰り返す肉体と意識を、「自我」であると執着して思い込んでいます。仏法では、こうした「自我」は単なる名相であり、永遠に変わらない本質などはないと説きます。これを「名色」または「仮我」と呼びます。

なぜこの「仮我」があるのでしょうか。それは「識」があるからです。「識」とは、過去世の業力によって現世に受胎(じゅたい、新しい生命を宿すこと)する一念が生じ、中有身(ちゅううしん、死から次の生までの間の中間の存在)から生有身(しょううしん、生を受けた瞬間の存在)へと結びつくことを指します。

なぜ「識」があるのでしょうか。それは「行」があるからです。「行」とは、心識の絶え間ない変化とのことです。この絶え間ない変化がさまざまな妄念を生じさせ、さまざまな業を造り、さまざまな果報を生むのです。

では、なぜ「行」があるのでしょうか。この絶え間ない変化は、「無明」があるからです。「無明」とは、万物の真実を正しく認識できず、智慧のない状態を指します。

仏は最後に、生死の苦しみから真に解脱するには、ついには仏の智慧を得なければならないと説かれました。(小乗の辟支仏や縁覚仏は、十二縁起の「縁」のうち一つを断ち切れば生死の輪廻は成り立たず、涅槃解脱の境地に至れると考えます。しかし、これは究極の見地ではありません。仏の最も究極的な見地では、すべての「縁」もまた仮説にすぎず、縁そのものが虚妄だからです。辟支仏や縁覚仏が、「縁すらも虚妄であり、実には断つべき縁などない」というこの見地を証得しなければ、真に仏の涅槃の境地に至ることはできません。)

このように、十二縁起法は四諦をよく表した優れた法門であります。

滅について

四諦の第三の真理は「滅諦」です。「滅」とは、梵語や巴利語で涅槃と訳され、火が消えることを意味し、煩悩の火が消え去った状態を指します。貪・瞋・癡の三つの煩悩は、仏法では「三毒の火」と称され、聖者の眼には、この世のあらゆる存在がこの三毒の火に焼かれ、刹那の安らぎもないと映ります。聖者は「我」や「貪・瞋・癡」といった根本煩悩が生み出す「業因」を永遠に断ち切り、清浄寂滅・輪廻解脱の境地——すなわち涅槃——を証得します。これは小乗仏教の修行者が目指す方向であり、究極の目標でもあります。ただし、仏教では小乗の修行者が証得した阿羅漢の境地を「有余涅槃」と呼びます。阿羅漢の境地は、禅定の力によって長期間にわたり生死の流れを一時的に止めることができるものの、まだ完全に輪廻から解脱したわけではありません。涅槃の境地は死後に初めて得られるものではなく、現世において成就しうるものです。

道について:

四諦の第四の真理は「道諦」です。道諦とは、私たちが生・老・病・死といったあらゆる煩悩や苦しみから解脱するためには、「道」を修めなければならないということを、仏陀が示されたものです。仏陀は四十九年にわたるご生涯の中で、衆生のさまざまな根機に応じて、多くの修道・証道の法門を説かれました。小乗仏法では、「三十七菩提道品」が重要な修行の要点として説かれています。また、大乗仏法では、菩薩道として「六波羅蜜多」を修めることが求められています。

六波羅蜜多

六波羅蜜多(ろくはらみつた)は「六度(ろくど)」とも称されます。「波羅蜜多(はらみつた)」は梵語の音訳で、「彼岸に至る」——すなわち生死の此岸から涅槃の彼岸に至ることを意味します。漢訳では「度(ど)」と意訳され、「渡る」「至る」という意味です。「六度」とは、大乗菩薩が解脱へと向かうための六つの実践法門を指します。六波羅蜜多とは、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・般若(はんにゃ)の六つです。これら六つの波羅蜜多を修めつつ、その空性を観ずることではじめて、解脱の法門と呼ぶことができるのです。

第一、布施波羅蜜多とは、布施によって解脱の門に入る修行です。

布施とは、自らが持つすべてのものを、助けを必要とする者に与えることです。たとえば、金銭、労働、知識、笑顔なども含まれます。この布施を修めるにあたっては、目的を設けず、見返りを求めず、施したことを心に留めません。仏法ではこれを「三輪体空(さんりんたいくう)」に基づく布施と説きます。すなわち、施す者、受ける者、施す物の三つともに空であると観じながら行う布施です。この「三輪体空」の布施こそが布施波羅蜜多であり、解脱の門に入ることを可能にします。そうでなければ、それは単なる人間的な善行や功徳の蓄積にすぎず、解脱への道とはなりません。

第二、持戒波羅蜜多とは、戒律を守ることによって解脱の門に入る修行です。

大乗と小乗の仏教にはたくさんの戒律がありますが、大乗の在家信者(ざいけしんじゃ、一般の信徒)にとって最も大切なのは、「諸悪莫作、衆善奉行(しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう、悪いことは一切せず、善いことはすべて行うこと)」という教えです。つまり、社会のルールや道徳にかなっていて、みんなの利益になることが「善」であり、それに反して人を傷つけることが「悪」です。戒律を守る本質は、行動を慎むことで心の放縦を抑え、少しずつ貪・瞋・癡(とん・じん・ち)(三毒)を取り除くことにあります。もし形だけを整えて、心が少しも変わらなければ、それは持戒波羅蜜多(じかいはらみつた)とは言えません。

例えば、五戒の一つである「不殺生(ふせっしょう、生き物を殺さないこと)」について考えてみましょう。この戒めの目的は、修行者の心の中にある殺心(せっしん)や瞋り(しんに)の毒を取り除くことです。たとえ菜食を実践し、放生(ほうじょう、捕まえた生き物を逃がすこと)を行っていても、心の中で周囲の人や出来事に対して不平を抱き、恨みや敵意を感じ、人の悪口を言い、相手の不幸を願う気持ちが少しも減っていなければ、それはすでに「殺生戒」を破っています。また、蚊を叩き殺し、その血が壁に染みる瞬間に、「やった」という快感が心に生まれることがあります。これも、普段は気づきにくい「殺心」です。私たちは害虫を退治したと思っていても、その「死」そのものに快楽を感じているなら、それもまた「殺生戒」を破る心の働きです。このように、「持戒波羅蜜多(じかいはらみつた)」において最も大切なのは、日々の行動を通じて自分の内側にある不善——貪・瞋・癡(とん・じん・ち、三毒)——に気づき、その瞬間に自覚して改めることです。戒律の本質とは、心をしっかりと制御することにあります。これこそが、大乗の道における解脱への門としての「持戒波羅蜜多」なのです。

第三、忍辱波羅蜜多とは、忍辱によって解脱の門に入る修行です。

「忍辱」とは、あらゆること、あらゆる人に対してただ従い、いじめられても反抗しないということでは決してありません。自分をいじめる人や、自分にとって不平等な扱い、過酷な状況に直面したときに、心の中で瞋恚(しんに)の念を起こさないことです。もし心の中に強い瞋恚が生じているなら、どのような行動をとっても、それはもはや「忍辱波羅蜜多」とは言えません。

「忍辱波羅蜜多(にんにくはらみつた)」における「忍」には、一つの境地に安住し、その空性を体得するという意味があります。どのような環境にあっても、心は絶えず人空(にんくう)と法空(ほうくう)を観じ、六根から生じる分別の覚受(かくじゅ)から自らを解き放ちます。時に怒りが生じても、その中に瞋恚(しんに)の毒がなければ、それはすでに解脱の門に入っているのです。たとえば、子供の過ちを叱るとき、そこに怒りはあっても瞋恚はありません。また、密教の諸仏は忿怒相(ふんぬそう、仏や菩薩が煩悩や魔障を調伏するためにあえて厳しい怒りの形相で現れる姿)を示しています。彼らは空性を証得しているため、その憤怒はまさに「真空妙有(しんくうみょうう、空の境地がそのまま不思議な働きとして現れること)」です。そして、それは大きな加持力(かじりく、仏や菩薩の力が加わり、修行者を守り導く力)をそなえています。

第四、精進波羅蜜多とは、精進することによって解脱の門に入る修行です。

「精進」にはさまざまな方法があります。たとえば、正法(しょうぼう、正しい教え、仏法)を一度聞いただけで、すぐにこれまでの悪い行いや、時間と命を無駄にする無益なことに手を出すのをやめます。そして、正法を聞き、学ぼうとする心を起こすこと。これも精進の一つです。

また、仏法の修行では、耐えられることは我慢し、断つべきことはきっぱり断ちます。そして、真剣に心を込めて、いつでも正しい修行の姿勢を保ちます。上師(じょうし、修行を指導する師匠。特に密教で重要な存在)から与えられた修行の課題も、怠らずに続けます。自分に甘い言い訳は一切しません。こうしたすべてが「精進波羅蜜多(しょうじんはらみつた)」なのです。

第五、禅定波羅蜜多とは、禅定によって解脱の門に入る修行です。

禅定を修める際には、少しの定力を得たからといって、それに驕ってはいけません。禅定の目的は、定力によって私たちが本来持っている智慧を開くことにあります。天の人々は禅悦や寂滅を楽しみますが、四禅八定(しぜんはちじょう)に長く留まっているだけでは、三界を出離することはできません。仏の智慧だけが、私たちを三界の輪廻から解脱させ、真の大自在(だいじざい、何ものにも束縛されない完全な自由)を得させてくれるのです。

禅定の方法は多岐にわたりますが、基本的には「静慮(じょうりょ、心を静めて深く瞑想すること、禅定の初歩段階)」「止観(しかん、心を一つの対象に集中させ、真理を観察する二つの働き)」「定慧(じょうえ、禅定と智慧が一体となった境地)」の三つの段階に分けられます。これらを順に深めていくことで、心はあらゆる境遇に安住できるようになります。安住を重ねるうちに、やがて人間の通常の感覚(覚受)を超え、物事の外側に現れた現象を越えて、その本質を見極める力が養われます。禅定の力が深まるにつれて、この覚照(かくしょう、心が対象を明らかに見つめ、智慧によってその本質を照らし出す働き)もより一層はっきりとし、円満になっていきます。そして、ついには解脱の門に入るのです。

第六、般若波羅蜜多とは、般若によって解脱の門に入る修行です。

般若(はんにゃ)は梵語の音訳で、「智慧」と訳されます。ただし、これは世の中の賢さや知識のことではありません。空性を正しく理解する智慧を指します。この空性の智慧によって、私たちは解脱の門に入ることができるのです。

コメントする