ここで簡単に、『金刚経』の核心的な教えを振り返ってみましょう。
この経典は、仏の弟子である長老・須菩提の問いから始まります。その問いは次のよう
なものでした。「発心して仏果を求めようとする善男子・善女人は、いかにして仏の知見
の道に安住し、いかにして心の煩悩や妄念を降伏させるのでしょうか。」
仏は、以下のいくつかの点についてお示しになりました。なぜなら、これらの点は、弟
子たちが今まさに修行の中で直面しなければならない問題だからです。また、最も執着し
やすく、知見において間違いを犯しやすいところだからです。
第一に、まず衆生を普く度すと発願すること。
なぜなら、人が仏果の成就を願って発心するとき、自分は生命の源に戻るべき存在であ
ることを自覚しなければならないからです。そして、その生命の源の立場から見れば、私
たちの「心」はすでに宇宙万物を包み込んでいます。ですから、仏果を成就しようとする
その誓いは、宇宙のすべての有情衆生を救おうとする誓いと、もともと一つなのです。内
と外は本来、一如(いちにょ、別々のものではないこと)なのです。
したがって、仏の果位から見れば、大乗の菩薩が仏果を求めて発心するときは、まず三
界六道のすべての衆生を平等に救うと誓わなければなりません。つまり、衆生を輪廻から
救い出すために成仏を目指すのであって、決して自分のためだけに成仏を求めてはいけな
いのです。
この発心は、修行の方法です。その目的は、発心したその瞬間から「我執(がしゅう)」
を破ることです。もし「自分の心があらゆる衆生を含んでいる」ということが理解しにく
ければ、次のように考えてみてください。私たちの心は、時には菩薩のように慈悲深くな
ります。時には怒りや瞋恚(しんに)、嫉妬に満ちて、修羅のようになります。時には聖
なる清らかさや完全さを渇望し、天人のようになります。時には心身の欲望に飲み込まれ、
人間としての節度を失い、欲望のままに振る舞う畜生のようになります。心身が苦痛に満
たされるときは、地獄道の衆生のようです。食物や愛情に飢え渇くときは、餓鬼道の衆生
のようです。名声や利益、愛情に執着し貪り、苦しみながらも手放せないときは、まさに
人間の姿そのものです。また、禅悦(ぜんえつ)に安住して光輝く境地を楽しむときは、
色界天(しきかいてん)の天人のようです。四無色定(しむしきじょう、無色界の四つの
深い禅定:空無辺処定・識無辺処定・無所有処定・非想非非想処定)に住するときは、無
色界天(むしきかいてん)の天人の境地です。このように見れば、私たちの心識(心の働
き)には、三界六道のあらゆる衆生の姿がすでにそなわっていることがわかります。です
から、自分自身を輪廻から解脱させて成仏することは、そのまま同時に、六道すべての衆
生の心を救うことと同じなのです。
ですから、仏はその初めに次のように説かれています。「あらゆる一切の衆生の類(た
ぐい)、もしくは卵生、もしくは胎生、もしくは湿生、もしくは化生、もしくは有色、も
しくは無色、もしくは有想、もしくは無想、もしくは非有想、もしくは非無想、我れは皆
無餘涅槃に入れ、之を滅度せしむ。」私たちの心識は、あらゆる有情衆生(うじょうしゅ
じょう)の心識を内包しているのです。ゆえに、私たちが成仏することは、すなわち一切
の衆生を無余涅槃(むよねはん)へと導くことにほかなりません。
衆生は無量無辺であり、私たちの心識(しんしき)に現れる現象にもまた、際限があり
ません。では、今、生命の源に戻ろうとする私たちは、どのようにして修行の道に安住し、
煩悩や妄念、雑念のない境地に至ることができるでしょうか。経文の中で、仏はこう示さ
れています。「三界六道のすべての相に執着しなければ、自然に安住でき、煩悩の障りな
く順調に本源へ回帰し、自分の自性如来(じしょうにょらい)を見ることができる」と。
しかし、何度も生まれ変わる中で積み重なった習気(じっき)や欲望に引かれて、私たち
は絶えず分別や認知を起こし、執着を生み出してしまいます。心識に潜む六道衆生の種子
(しゅうし)は、縁(えん)に触れるとすぐに芽を出し、花開き、実を結びます。修行を
始めたばかりの私たちは、これらの「縁」に対して、なす術がないように感じられます。
そこで仏は、「不取於相、如如不動(相を取らず、如如不動)」と教えられました。つま
り、身心に湧き起こる欲望や覚受(かくじゅ)、あるいは六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)
が感知するすべてのものに、心を動かされてはいけないのです。まず、それらを幻の風景
のように見ることが大切です。たとえば、ある場所を離れようとするとき、その場所の何
かにしがみついていたら、一歩も動けません。同じように、今、三界六道から離れようと
しているのは、私たちの心識そのものです。だからこそ、心は何ものにも執着し、引きず
られてはいけません。三界六道のすべては、通り過ぎる風景のようなものです。はっきり
と見えていますが、心にとってはただの幻影です。執着し、取捨選択する必要はなく、ま
してやしがみついて絶対に手放さないなどということがあってはなりません。そうでなけ
れば、私たちの心は仏の見地に安住して、源へと戻ることができないのです。
仏は経文の中で、人間が仏を目指す上で最も執着しやすい「四相(しそう)」、すなわ
ち「我相(がそう)」「人相(にんそう)」「衆生相(しゅじょうそう)」「寿者相(じ
ゅしゃそう)」を、最初に破るべき重点として説かれました。「我相」とは、「自我」に
対する認識のことです。絶えず生まれ変わり消えていく「心と体」を、不変の実体である
「自分」だと思い込むことです。この「自我」という相こそ、誰もが最も強くこだわって
いるものです。自我の一つ一つの覚受(かくじゅ)(感じ方や体験)が私たちの心を揺さ
ぶり、貪・瞋・癡・慢・疑(とん・じん・ち・まん・ぎ)を生じさせ、私たちを人間の世
界(人道)に縛りつけてしまいます。「人相」とは、他人に対する分別や認識を指します。
例えば、美醜や善悪などについて他人を区別し、それに基づいて様々な見解や取捨選択、
感覚を起こし、そこから多くの煩悩(ぼんのう)や不自由さを生み出すことです。私たち
は自分の心さえうまくコントロールできないのに、さらに他人を独占したり、支配しよう
としたりするのです。
「衆生相」とは、私たちが認識する三界六道の有情衆生を指します。私たちは彼らがそ
れぞれ異なる相貌や習性を持っていると考え、その差別相(しゃべつそう、物事の違いや
区別にこだわる心の働き)に翻弄されて、一切の有情を平等に扱うことができなくなりま
す。さらに、大多数の人が抱く「衆生相」は、実は広大な時空にわたる心の中の想像(概
念)に過ぎません。畜生道を除けば、他の道の衆生は目に見えず、あたかも私たちの習気
(じっき)の種子の中にのみ存在しているかのようです。私たちが自分の習気や欲望に惑
わされ、引きずられること、それがすなわち、三界六道の一切の有情衆生に心を動かされ
ているということなのです。
「寿者相」とは、人間が追い求める目標の一つです。誰もが自分の命を愛し、死を恐れ、
長生きしたいと願います。これは、万物の生滅する姿にこだわり、固定された時間や空間
の概念に縛られているからです。生と死の相に執着する人は、たとえ仏の涅槃の境地を求
めても、結局は「もう生まれ変わりたくない」という思いに過ぎません。
仏はこうおっしゃいました。「今、善男子・善女人よ。もし発心して生命の根源(如来
真空)に帰ろうとするなら、どうして安住できず、俗縁(ぞくえん、世俗のさまざまな因
縁や出来事)に引きずられて戻れないのか。それは、根本的な四つの相、すなわち我相・
人相・衆生相・寿者相があるからです。まずこれらを虚妄不実(きょもうふじつ、実体の
ない幻のようなもの)と観じ、ここから手放さなければなりません。」したがって、この
世俗の中で菩薩が自らを度し他を利するにあたっては、そもそも「我」もなく、「度すべ
き衆生」もないという見地を、まず確立しなければならないのです。
第二に、仏は大乗菩薩の「出離」についてこう示されました。「一切の相
に住することなく布施すべし。」
布施(ふせ)は、大菩薩の修行において「自我を破る」最も効果的な方法です。菩薩が
仏果を成就するためには、まず出離心(しゅつりしん)が必要です。それは、身心の内外
のすべてを捨て、三界六道から離れようとする心です。もし三界六道のすべてにまだ未練
があるなら、どうして生命の源に戻ることができるでしょうか。それでは、ただ三界六道
をさまようだけです。では、どのようにして捨て離れればよいのでしょうか。布施や捨離
をするときは、すべてが夢や幻のようであり、得るものも失うものもないと観じることで
す。これを「相に住することなく布施すべし」「相に住することなく捨離すべし」といい
ます。もし菩薩が「自分は実在する」「布施するものは実在する」と考えてしまうと、そ
の布施はただの人間の世界での善行にすぎません。福徳は得られても、仏の悟り(仏果)
を成就することはできません。さらに、そのような布施では、いつも「与えた」「失った」
「犠牲を払った」「捧げた」という感覚がつきまといます。そうなると、修行はとても難
しくなり、煩悩や苦しみも絶えません。その結果、如来の正しい知見の道に安住できず、
生命の源へ円滑に戻ることも難しくなってしまいます。
したがって、大菩薩の「出離心」とは、三界六道のすべてが虚妄不実であると知り、そ
の見地に立って布施や捨離を行うことです。これが本当の出離です。このような布施の功
徳は、虚空に満ち、法界に広がり、衆生を輪廻の幻の世界から目覚めさせることができま
す。実際の修行では、もし行者が本当に身心の内外すべてが虚妄不実だと理解できれば、
何一つとして捨てられないものはありません。しかし、ほとんどの行者は、まずそのよう
な見地を聞いてから、少しずつ布施を実践します。捨てられないものから少しずつ手放し、
見返りや理解を求めずに施すことで、功徳が次第に円満になっていきます。そして、貪り
や得失の心がついに尽きたとき、初めて仏の説かれた「すべては虚妄である」という言葉
の真意がわかります。つまり、すべての美しさ、価値、働き、意味などは、私たちが相に
執着する心が勝手に与えたものにすぎないのです。だからこそ、「相に住することなく捨
離する」ことが菩薩の修行法です。菩薩は仏の正しい知見に従って、捨離にともないがち
な「得失の心」を調伏しながら、少しずつ功徳を円満にし、いつしか三界六道の幻の世界
から目覚めていくのです。
第三に、仏はこう説かれました。「人が発心して仏果を成就しようとするな
ら、仏の相に執着してはなりません。執着すれば、自性如来を見ることがで
きないのです。」
つまり、行者は心の中で「如来」を特定の固定的な形象として捉え、その姿になろうと
努力してはいけません。如来は時空に応じて種々の相を現じますが、それらはすべて衆生
を救うために縁に随って示現されたものであり、相そのものが実体ではないのです。もし
今、真に発心して仏道を歩もうとするなら、すべての衆生が本来具えている仏性を認める
ことによってこそ、初めて真に如来を見たと言えるのです。自分を「時空の中に示現され
る特定の如来の姿」に変えようとするのではありません。もしそうなら、天界の神通自在
な衆生は、ただ姿を変えさえすれば仏になれることになり、修行の必要などなくなってし
まいます。しかし、それは真の成仏ではないのです。もし心の中に仏の固定的なイメージ
があるなら、如来の境地を了知(りょうち、はっきりと理解すること)することも、仏果
を成就することもできません。しかし、すべての相が虚妄であると徹見し、自我の相にも、
衆生の相にも、さらには仏の相にも執着しなくなったなら、そのとき、自分を含む一切衆
生の本来の姿が、すなわち如来そのものであることを知るのです。
私たちが修行を始めたばかりの時は、心に平等性がなく、種々の差別相にとらわれてい
ます。そのため、「自分は凡夫である」という衆生相が生じ、心にはなりたい「仏の理想
像」が描かれてしまいます。そうなると、円満な仏果の成就とは、「凡夫の相」から「あ
る理想の仏の相」へと変じることだと誤解してしまいます。しかし、仏は「すべての相は
虚妄である」と説かれます。生命の根源へ回帰しようとするなら、自我としての凡夫相も、
衆生相も、そして「成ろうとする仏の相」さえも、いっさい抱いてはなりません。そうで
なければ、真実の成就は得られないのです。あらゆる相を真に離れ、いかなる相にも執着
しないその時にこそ、如来を見ることができるのです。
第四に、仏は、もし人が仏果を成就しようと発心するならば、「法相」に執
着してはならないし、「非法相」にも執着してはならないと説かれました。
仏は、私たちのために法を説かれます。それはちょうど、病気に応じて薬を与えるよう
なものです。病気が異なれば薬も異なります。私たちの病気が治った後は、その薬も捨て
るべきです。もし私たちに仏相(ぶっそう)もなく、我相(がそう)もなければ、法を説
く者も法を聞く者も存在せず、法相(ほっそう)というものもあり得ません。ですから、
「仏法を得た」とか「ある特定の法が仏法である」といった知見を持つべきではありませ
ん。しかし、これを誤解して、「仏は一切を否定している。すべては虚妄だ」「仏法も虚
妄だから、学ぶ必要もない。修行する必要も功徳を積む必要もない。そのまま宇宙の万象
や輪廻の幻から覚められる」と思い込むなら、それは「非法相(ひほうそう)」に執着し
ていることになります。また、「依って学ぶべき法などない」と考えることも同様です。
もし「法の相」に執着して仏法を学ぶなら、心の中に増えるのは仏教の概念や言葉、そ
して分別の知見ばかりです。そうでは、如来の果位の境地に戻ることはできません。仏は
「法相に執着してはならず、非法相にも執着してはならない」と説かれた際、次のように
お示しになりました。「もし衆生が、ただ『相を破れ』という知見を頭に詰め込んでいる
だけで、仏の説法を聞いた後、すぐにその執着を捨てようとしないなら、それこそ法相に
執着していることになります。あるいは、一時的に執着を捨てたとしても、今度は自分が
学んだその教えこそ真の仏法であり、自分は仏法を得たと執着するのもいけません。その
ような法への執着や『得た』という心は、ちょうど川を渡り終えた者が、なお舟を背負っ
て岸に上がろうとするようなもので、仏が何を説かれたかをまったく理解していないので
す。」
第五に、仏は、人が仏果を成就しようと発心するなら、心に「得るべき果
位」があってはならないと説かれます。そもそも、仏の説法にも固定的な「法」
はないのです。
すなわち、ある人が仏の外見には執着しなくなり、「仏は無形無相(むぎょうむそう、
形も姿もないこと)だ」と考えても、その人が文字や概念に執着している限り、「無形無
相」という言葉自体もまた一つの「相」になってしまいます。また、もし仏の姿に執着し
なくても、「無上正等正覚という果位が得られる」と思うなら、それも間違いです。なぜ
なら、成仏とは、「求めようとする心」や「得ようとする心」をすべて捨てることだから
です。もし修行者が「無上正等正覚」を、ある境地や円満な証量(修行によって実際に体
得した悟りの深さや境地の程度)といった「得られるもの」だと思うなら、求め得る心は
決して止みません。そうすれば、永遠に今この瞬間に如来の真空の境地に帰ることも、真
に成仏することもできないのです。
仏はこうおっしゃいました。「私は普段、皆さんに様々な法門をお説きしてきましたが、
『これが仏法だ』と決まった法は一つもありません。仏の説法は、無我・無人・無衆生と
いう基盤に立ってなされるものです。ですから、それを捉えることも、言葉で言い表すこ
ともできません。それは、それぞれの衆生の執着に応じて、その場その場で施される教え
なのです。衆生の執着が異なれば、説かれる仏法も異なります。そもそも、固定的に得た
り取ったりできるような『仏法』というものは存在しません。このように説いているのは
私だけではなく、他の聖者たちも同じです。」
仏は、善男子・善女人が発心して成仏しようとする際に、最も間違いを起こしやすい点
をお示しになりました。もしこれらの点において仏の正しい知見がなければ、どのような
修行も菩薩道とはならず、当然ながら仏果を成就することはできません。現実の生活では、
大菩薩も凡夫の衆生と同じように、世の中のあらゆる事業や善行を行います。しかし、菩
薩は仏の正しい知見に導かれて行うため、輪廻の苦しみの海を超え出て、仏果を成就する
ことができるのです。一方、凡夫の衆生は、もし仏の正しい知見という導きがなければ、
たとえ慈善事業を行っても、煩悩や虚妄の苦しみの海に陥ってしまうことさえあります。
せいぜい得られるのは、人間や天の世界における一時的な善い報い(人天の善報)にすぎ
ません。
第六に、仏は、眼前で説法を聞く弟子たちの修行の段階に即して、適切に
法を説かれています。
『金剛経』の冒頭には、この時の仏の説法を聞いた者として、大比丘衆(だいびくしゅ)
が千二百五十人いたと記されています。その中には、初果から四果の阿羅漢まで、さまざ
まな段階を証得した人が多く含まれていました。また、まだこれらの聖なる境地に達して
いない善男子・善女人も、彼らを模範として、自らもその証得を目指して修行していまし
た。仏は、弟子たちが「得ようとする心(所得心)」で果位を成就しようとすることを心
配されました。つまり、分別や執着を離れるのではなく、何かを得ようとする心で果位を
求めていることを憂慮されたのです。そこで仏は、須菩提に対して、初果から四果に至る
まで、それぞれに果位を得ることができるのかと、一つ一つ問いかけられました。もちろ
ん、経の前の部分では、すでに我相・人相・衆生相・寿者相だけでなく、仏相や法相さえ
も実体がない(無相)と説かれています。したがって、阿羅漢の果位という相も存在しな
いのです。須菩提はこれに対して、いずれの果位も得られるものではないと答えました。
さらに仏は、自らを例に挙げて、「私が昔、燃灯仏のもとで学んだときも、何らの法も得
ず、何らの果位も得なかった」と示されたのでした。
これら一連の問答は、いずれも弟子たちの「有所得心(しょとくしん、得ようとする心)」
を打ち破ることが目的です。その根底には、「一切の相は虚妄である」という真理があり
ます。しかし、「一切の相」という概念はあまりにも広いため、衆生が聞いても具体的に
理解しにくいものです。そこで仏は、説法を弟子たちが最も切望し、かつ心の中で執着し
やすい具体的な対象——すなわち、仏相(ぶっそう)、法相(ほっそう)、阿羅漢(あらか
ん)の相など——へと具体化して示されました。実は、これらの「相」は、凡夫の衆生が執
着する我相・人相・衆生相・寿者相と、その本質において何ら変わりません。日常生活の
中で、仏が四果阿羅漢のそれぞれの果位を認められるのは、それが修行の過程で特定の執
着が破られた一つの段階を示し、普通の人にはない一時的な境地や証量(しょうりょう)
を得たことを意味するからです。しかし、私たちは「衆生は本来、仏である」という正し
い知見に基づいて、仏法を学び、修行を進めるべきです。修行の過程で経験するすべては、
まさに「夢の中の出来事」です。何かを得ようと、何かを捨てようと、すべては幻にすぎ
ません。とはいえ、四果阿羅漢を軽視してはいけません。彼らが証得した境地は、この夢
からより速やかに覚醒する能力を備えさせているからです。
第七に、仏が阿羅漢の果位について説き終えた後、さらに菩薩の功徳の相
について説かれました。
発心したばかりの善男子・善女人から見れば、菩薩は、世間・出世間の一切の善法を行
い、自らの心と他者の心を清め、衆生を普く済度し、すべての佛法を護持(ごじ、仏法を
守り維持すること)する功徳を積むことによって、自らの心や十方一切の仏国土を荘厳し
ています。仏は「我無く、衆生も無く、世界の万法は平等であり、仏土は本来清浄である」
と説かれました。ゆえに、菩薩行はすなわち「行ずる所なき行」(無行)なのです。発心
して仏を成じようとする者は、菩薩の行いや、須弥山王のように大きな菩薩の功徳身相に
執着してはなりません。執着すれば、依然として「心の住する所あり」という状態に陥り、
如来の果位に還ることができません。菩薩は「一切の相に執着することなく、一切の善法
を行ずべし」。すなわち「住する所無くして其の心を生ず」るのです。この時、菩薩の功
徳は初めて空性に帰し、成仏することができるのです。
現実の生活において、「菩薩相」や「功德相」に執着すべきではありません。仏が説か
れるのは、菩薩道を行わなくてよいとか、功徳を円満にしなくてよいということではあり
ません。重要なのは、仏の果位における知見をもって実践することです。それによってこ
そ、人は速やかに仏の円満なる功徳、資質、証量を備えることができます。なぜなら、あ
なたは本来、仏だからです。
第八に、仏は弟子たちにこう教えられました。仏果の成就を志す者は、微
塵から三千大千世界に至るまで、一切は虚妄であることを悟るべきです。
このようにして初めて、「無所住(むしょじゅう、どこにも執着しないこと)」の境地
に安住することができます。そうすれば、菩薩道を行じながらも、行じたという相があり
ません。また、あらゆる心が生じても、その生じる場所も、滅する場所も、とどまる場所
もないと悟ることができるのです。その結果、如来の果位に戻ることができ、心は安らか
になり、煩悩も妄念もなくなります。
第九に、仏が破ったのは、弟子たちの心中にある仏の功徳の相、つまり三
十二相八十随形好です。これは、発心したばかりの弟子たちが追求し、貪り
やすい形象でもあります。
仏は「一切の相は虚妄である」と説かれました。しかし、弟子たちはこの功徳の相をす
ぐに心から消し去れるとは限りません。依然として、求める心や得ようとする心が残って
いるかもしれません。また、この身の相が、菩薩が長い間(劫)にわたって菩薩道を行じ、
布施や忍辱を修行した結果であると知れば、畏敬の念が生じます。そのため、安易に「こ
れも虚妄である」とは言えなくなるでしょう。しかし、仏はこの相も虚妄であり、ただの
仮の名前にすぎないと示されたのです。
仏が弟子たちの心の執着をここまで破られたとき、解空第一と称される須菩提は、心
の迷いがすべて消え去り、涙を流しながらこう言いました。「一切の諸相を離れたるを、
すなわち諸仏と名づく。」今、ここでこの話を聞いている皆さんも、須菩提の言う「一切
の相を離れる」ということが、仏の説かれた「一切の相は虚妄である」という意味に基づ
いていると理解すべきです。これは、現実の生活の中で一切の相を捨て去ったり、その真
偽や虚実を論じ争ったりすることではありません。「一切の相は虚妄である」と知ること
こそが、真に一切の相を離れることなのです。そうすれば、「無所住」の心が生じ、行っ
ているようで行っておらず、修しているようで修しておらず、得ているようで得ていない
という境地に至ることができます。もし成仏を目指して発心した人が「一切の相は虚妄で
ある」と悟るならば、自分の成道を妨げるような行いは決してしません。ましてや、他の
衆生を傷つけるようなことも決してしないでしょう。また、菩薩道において布施・持戒・
忍辱などを実践するにも、もはや困難を感じることはないのです。
仏はさらに、ご自身の過去世での忍辱修行の例を挙げて、この考えを明らかにされまし
た。忍辱仙人として五百世もの間、修行を積まれました。その中のある一世で「忍辱行」
をしているとき、歌利王に身体を切り刻まれ、手足を断たれました。しかし、そのときも
「一切の相は虚妄である」という見地に安住していました。彼には我相も人相もなく、耐
え忍ぶべき事柄の相もなく、少しの怒りも起こしませんでした。その結果、忍辱行の中で
空性(くうしょう)をはっきりと見抜き、ついには仏果を円満に成就されたのです。
ここまで説かれて、仏は次のように結ばれました。「善男子・善女人よ、無上の正等正
覚(仏果)を求めようと発心するならば、『一切の相を離れて発心すべし』。一切の相こ
とごとく虚妄であるから、相を離れれば求めることもなく、得ることもありません。これ
こそ真の出離心、真の菩薩の発心です。」このように一切の相が虚妄であると知り、実に
は度すべき衆生などいないと悟りながら、あらゆる菩薩は一切衆生を利益するために、布
施を行い、忍辱を修めるなどと発心します。これこそは修行の方法であり、如来の果位に
還り「我執」を破るために必要でもあります。さらに、本質において、衆生を利益するこ
とはすなわち自己を利益することに他なりません。衆生を利益してこそ功徳は円満になり、
仏果は成就されるのです。
仏はさらに譬えを用いて説かれました。もし菩薩が相に執着して布施などの修行を行え
ば、我相、求める心、人相といったものが、すべて修行の妨げとなります。その妨げによ
って、人の心はまるで暗い部屋の中にいるようになり、光明を見ることができなくなりま
す。どんなに小さな相でも、たとえば一粒の微塵や一枚の羽毛のように軽いものであって
も、それを実在するものと思い、心の中で執着し気にかけるなら、その微塵や羽毛があな
たの目を覆い隠します。まるで一枚の葉で視界を遮られ、森全体が見えなくなるようなも
のです。そして、その人の心身の世界全体が満たされ、まるで檻に閉じ込められ、重い荷
物を背負わされたかのように圧迫されます。そうなると、如来の自在な境地へ戻ることが
できなくなってしまうのです。
仏はさらに、このような見地は「小法を楽しむ者」には受け入れがたいと説かれました。
なぜなら、彼らはわずかな神通や神変を求め、この世の平安や健康、静かで楽しい生活、
長寿や安楽な暮らしだけを願うからです。そうした人に、一切の相を離れ、「一切の相は
虚妄である」という見地を受け入れさせることは難しいでしょう。布施・持戒・忍辱など
の菩薩行を実践させ、一時的に人間の栄華富貴を捨て去らせることも、難しいのです。彼
らには我見・人見・衆生見・寿者見があるからです。仏の目から見れば、たとえ千年の寿
命を持つこの一生も、指を弾くほどの一瞬にすぎません。
仏はこの見地を説く中で、弟子たちにこう告げられました。「もし、私の説くところを
理解し、その通りに修行する人がいるなら、その人の功徳と果報は計り知れないほど大き
なものとなります。なぜなら、それによって輪廻から解脱し、仏としての大自在を得るこ
とができるからです。その功徳と果報は、本当に想像を絶するほど大きなものです。」こ
れまでに説かれてきた内容は、弟子たちが発心したばかりの時期に、見地の上で犯しやす
い誤りや、執着しやすい「相」について、仏が根本から指摘された教えです。経典の構成
上は、現在の流布本における前十七品に相当します。
『金剛経』の第十七品以降では、須菩提が再び仏に質問をします。それは、「仏果を求
めて発心した善男子・善女人は、どのようにして仏の知見の道に安住し、どのようにして
内なる煩悩や妄念を降伏すべきか」というものです。これに対する仏の答えは、それまで
の品とは異なる角度から説かれています。
なぜなら、仏はこれまでの十七品の中で、弟子たちがその時々に執着していた「相」を
すべて打ち破ってきたからです。そこで今度は、「相を破った後の如来の果位の境地」に
ついて説き始められます。その目的は、弟子たちに自分の心を内側から観察させ(内観)、
一切の現象には「我」がない(諸法無我)という立場に安住させることにあります。もし
それができれば、弟子たちは仏と一体(不二)となるのです。私たちは、弟子たちが安住
すべきこの境地を、仮に「如来真空の境地」と呼びましょう。では、仏がこの境地をどの
ように説かれたのか、これから見ていきます。
一、「如来の真空境界」には、発心する者は存在しません。なぜなら、無我・無人・無
衆生だからです。それでは、いったい誰が無上正等正覚を求めて発心するというので
しょうか。ここで如来は、ご自身が燃灯仏のもとで修行された例を挙げて、こう説か
れました。「私は昔、燃灯仏のもとで、発心する者もなく、得る果位もないことを悟
194
りました。それゆえ、燃灯仏から授記(じゅき)を受けて仏となったのです。」そし
て、「如来者,即諸法如義(如来とは、すなわち諸法は如なりとの義なればなり)」
と結ばれます。つまり、すべての法はこのとおりであり、いずれも無我であり、自性
(じしょう)がなく、その本性はことごとく如来なのです。
二、「如来の真空境界」には、菩薩は存在しません。菩薩と名づけられるものは何もな
く、須弥山のように大きな功徳の身相もなければ、仏土を荘厳するということもあり
ません。
三、「如来の真空境界」には、五眼(肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼)と六神通(天眼
通・天耳通・他心通・宿命通・神足通・漏尽通)があります。しかし、これらの眼で
見えるものはすべて虚妄です。どの眼にも「どこから生じた」ということはなく、見
られる一切のものは、その本質において空です。
四、如来は無量の化身(けしん)をもち、衆生の縁にしたがって各道に示現されます。
しかし、「如来の真空境界」には示現しようとする心はありません。たとえ人道に示
現される場合でも、如来は砂を砂と言い、托鉢して食を乞われるのであり、衆生と異
なるところは何もありません。
五、「如来の真空境界」には、過去心・現在心・未来心はなく、時空そのものもありま
せん。時空の流れも、変異も、不動もなく、一切は無生(むしょう、生じることがな
い)です。
六、「如来の真空境界」には福徳というものはありません。それゆえ、菩薩道において
積まれる福徳は無量無辺となり、あまねく一切のところに円満に満ち渡るのです。
七、「如来の真空境界」には三十二相(さんじゅうにそう)と八十随形好(はちじゅう
ずいぎょうこう)は存在しません。
八、「如来の真空境界」には、宇宙の一切の相がなく、三千大千世界も存在しません。
九、「如来の真空境界」には、一つの念も生じず、法を説く者もおらず、衆生を度する
者もいません。
十、「如来の真空境界」には、衆生もなく、凡夫もいません。
十一、「如来の真空境界」には、所得心(しょとくしん、得ようとする心)がありませ
ん。
十二、「如来の真空境界」では、諸法は平等です。なぜなら、諸法の性空(しょうくう)
(本質が空であること)によるからです。
十三、「如来の真空境界」において、如来が「我」と言うこともありますが、それは仮
の名前にすぎません。
十四、「如来の真空境界」には、観る者(能観)も、観られるもの(所観)もありませ
ん。
十五、「如来の真空境界」においては、宇宙の万法について断滅(だんめつ)を説くこ
とはありません。つまり、一切を捨て去ったり否定したりすることはありません。
十六、「如来の真空境界」では、如来は来ることもなく、去ることもなく、生ずること
も、滅することもありません。
十七、「如来の真空境界」には、縁起(えんぎ)もなければ、性空(しょうくう)もあ
りません。
十八、「如来の真空境界」には、いかなる分別の知見もありません。
十九、「如来の真空境界」では、万法は平等であり、いかなる法相(ほっそう)も生じ
ません。
では、どのように『金剛経』を供養し、修証し、広めていけばよいのでしょうか。経典
の中には、いくつかの大切な教えが示されています。
第一に、無上正等正覚の円満な覚りとは、何を指すのでしょうか。
第二十三品において、仏はこう説かれています。「この法は平等にして、高下有ること
無し。これを阿耨多羅三藐三菩提と名づく。」
したがって、無上正等正覚の円満な覚りとは、万法の平等性を証得することを意味しま
す。
円満な覚りを得た者は、宇宙の一切の法に対し平等な心と、平等な眼・耳・鼻・舌・身・
意を持っているのです。
第二に、どのようにして無上正等正覚の円満な覚りを成就すればよいので
しょうか。第二十三品において、仏はこう説かれています。「我も無く、人
も無く、衆生も無く、寿者も無きを以って、一切の善法を修むれば、すなわ
ち阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。須菩提よ、言うところの善法とは、如来
は善法に非ずと説きたればなり。これを善法と名づくるなり。」
したがって、行者が俗世にあっても一切の相に執着せず、一切の善法を行じながら、そ
の善法の相さえも執着しなければ、無上正等正覚を成就することができるのです。
第三に、いかにして『金剛経』を供養し、如来を供養すればよいのでしょ
うか。
仏は第五品においてこう言われました。「およそあらゆる相は皆な是れ虚妄なり。もし
諸相は相に非ずと見るときは、すなわち如来を見る。」
第十四品において、須菩提はこう言いました。「一切の諸相を離れたるをすなわち諸仏
と名づくればなり。」仏は言われました。「かくの如し、かくの如し。」
したがって、行者は一切の相を離れ(執着しないで)、成道すると発心すべきです。
一切の相を離れて、三界六道と六根六塵とを捨離すべきです。
一切の相を離れて、自性如来を見出すべきです。
一切の相を離れて、菩薩道を行じるべきです。
一切の相を離れて、仏法を広めるべきです。
そして、一切の相を離れ、出世間・世間を問わず、衆生を利益するすべての事業を行い
ながらも、求める心なく、得ようとする心もないことです。
このように実践することこそが、自性如来と『金剛経』を供養する道なのです。
第四に、どのように『金剛経』を修証し、解説すればよいのでしょうか。
仏は第三十二品において、次のように説かれています。「相を取らざれば、如如にして
不動なり。一切の有爲法は、夢幻泡影の如く、露の如く、亦た電の如し。まさにかくの如
くき観を作すべし。」
行者は、座禅のときだけでなく、日常生活の中でも、仏の「一切の相は虚妄なり」とい
う教えを信じるならば、身心の内外に起こるすべての覚受(かくじゅ)・体験・境界・分
別・認知を、虚妄であると見ることができます。そうすると、心には生じる場所も、滅す
る場所も、とどまる場所もなくなります。この状態を「無所住に安住する」といいます。
また、これを「法界大定(ほっかいだいじょう、あらゆる現象の世界における最高の禅定)」
や「如来空定(にょらいくうじょう、如来の空性の境地に住する禅定)」と呼びます。た
だし、修行を始めたばかりの頃は、相に執着する人が「虚妄」という言葉自体を一つの境
地や相として捉えてしまうことがあります。そうすると、かえって虚無や空という概念に
安住することになり、やはり相に執着していることになります。そのままでは、直接に「空
定」に入ることはできません。そのような場合には、まず止観(しかん、心を一箇所に集
中させて散乱を止める「止」と、対象を観察して智慧を起こす「観」という二つの修行法
門)を段階的に学び、少しずつ成就を目指すことも一つの方法です。
経典は、実証(じっしょう、実際の修行と体験を通じて真理を体得すること)を通して
『金剛経』を解釈し説くようにと教えています。そのためには、まず私たち自身が実証に
よって一切の相に執着せず、如如不動のまま仏の見地に安住しなければなりません。そう
して初めて、他人に対して仏の般若智慧を正しく説き明かすことができるのです。
第五に、『金剛経』を学ぶ者が目指す証量の境地とは。
仏は第三十一品でこう説かれています。「阿耨多羅三藐三菩提の心を発する者は、一切
の法において、まさにかくの如く知り、かくの如く見、かくの如く信解して、法相を生ぜ
ざれ。」
行者が仏の般若智慧を本当に理解したとき、「法相(ほっそう)を生じない」境地が自
然と現れます。この「法相を生じない」ということが、『金剛経』を学ぶ者の証得すべき
核心的な境地です。そして、行者がこの境地に達したとき、同時に「無我」の状態に入り
ます。なぜなら、「自我」もまた「諸法相」の一つにすぎず、すべての法相が生じなくな
れば、「我」という相も生じなくなるからです。このようにして、行者は「如来の真空境
界」へと入っていくのです。
最後に、功徳について触れておきます。
経文には繰り返し説かれているように、もし人が般若の智慧を信受奉行し、あるいはそ
の教えの中の一つの見解を受け入れて修証し、さらに他人のために解説するならば、その
功徳は計り知れず、広大無辺なものとなります。