須菩提は仏に白(もう)して言わく、「世尊よ、すこぶる衆生の有りて、かくの如き説章
句を聞き得て、実信を生ずるや、いなや。」仏は須菩提に告げたもう、「是の説を作(な)
すこと莫(なか)れ。如来の滅後、後の五百歳に、戒を持し、福を修むる者有りて、此の章
句において、能く信心を生じ、これを実なりと為さん、まさに知るべし。この人は一仏、
二仏、三四五仏に於いて、善根を植えしのみならず、すでに無量千萬の仏の所に於いて、
諸々の善根を種(う)え、この章句を聞きて、乃至一念に浄信を生じる者なることを、須菩
提よ、如来は是の諸々の衆生の是くの如き無量の福徳を得んことを悉く知り、悉く見るな
り。何を以ての故に、この諸々の衆生には、復た我相・人相・衆生相・寿者相無く、法相
も無く、亦た非法相無ければなり。何を以ての故に、是の諸々の衆生が、もし心に相を取
るときは、すなわち我・人・衆生・寿者に著(じゃく)せられ、もし法に相を取るときは、
すなわち我・人・衆生・寿者に著(じゃく)すればなり。何を以ての故に、もし非法に相を
取るときは、すなわち我・人・衆生・寿者に著(じゃく)すればなり。是れ故、まさに法を
も取るべからず。まさに非法をも取るべからず。是の義を以ての故に、如来は常に説けり、
『汝ら比丘よ、我が説法を筏の喩(たとえ)の如しと知るものは、法すらなおまさに捨てる
べし、いかに況(いわ)んや非法をや』と。」
この品の大意は、次の通りです。前の品で仏はこう説かれました。修行者が無上正等正
覚の仏果を成就するには、発願も相に執着せず、布施も相に住せず、身相に捉われずに如
来を見るべきである。そして、一切の相は虚妄であると観じなければならない、と。この
ような見地に安住しながら菩薩道を実践すれば、修行者は時空や身心といった内外のあら
ゆる障害を速やかに乗り越え、自性如来へと回帰することができるのです。
この時、須菩提は未来の世を憂えて、仏にこう尋ねました。「仏が入滅された後、この
教えを聞く者があったとして、彼らはそれを信じ、その通りに修行することができるでし
ょうか。」仏は須菩提にはっきりと答えられました。「心配するには及びません。たとえ
私の涅槃後、末法(まっぽう、仏法の力が衰え悟りを得る者がいなくなる時代)の最後の
五百年の時代であっても、この教えを聞いて真実不虚(しんじつふこ)と信じ、それを正
見として成道の因とする者が、必ず現れます。」
では、そうした人々とは、どのような人なのでしょうか。それは、戒律を守り、福徳を
修めてきた人々です。仏は仰いました。「彼らは、一仏や二仏、あるいは三仏・四仏・五
仏の御前で功徳を修め、善根(ぜんこん、仏道を成就させるための良い種となる修行)を
植えてきたような者ではございません。すでに無量千万の仏のもとで善根を培ってきたの
です。」さらに仏は、未来世において、もしこの経文の内容を聞いて一念清淨(いちねん
しょうじょう、心の一瞬の清らかさ)となり、正信(しょうしん、正しい信心)を生じる
者がいれば、その者の得る功徳は、先に広く福報を修め、善根を植えてきた人々と同じく
広大である、と予言されました。なぜそのように仰るのでしょうか。仏は次のように説か
れました。「たとえ、これまで戒を守り福を修めるといった行いをしてこなかった衆生で
あっても、一念清淨の心で正信を生じるならば、すでに我相・人相・衆生相・寿者相を破
り、さらに法相にも、非法相にも執着しないからです。」そういうわけで、一念の間に得
られる功徳は甚大なのです。
仏がここで説かれた「これらの人々」には、現在『金剛経』を学んでいる私たち自身も
含まれます。二千六百年前、仏陀はすでに私たちを見通しており、その功徳が非常に大き
いと預言していたのです。なぜなら、私たちはただ信じるだけでなく、この経典の内容に
従って実際に修行しているからです。このことから、須菩提の心配が余計なものであった
ことが証明されます。
この品の中で、いくつかの重要な概念を理解しておく必要があります。経文には次のよ
うにあります。「是諸眾生,若心取相,則為著我人眾生壽者。若取法相,即著我人眾生壽
者。何以故?若取非法相,即著我人眾生壽者,是故不應取法,不應取非法(是の諸々の衆
生が、もし心に相を取るときは、すなわち我・人・衆生・寿者に著せられ、もし法に相を
取るときは、すなわち我・人・衆生・寿者に著すればなり。何を以ての故に、もし非法に
相を取るときは、すなわち我・人・衆生・寿者に著すればなり。是れ故、まさに法をも取
るべからず。まさに非法をも取るべからず)。」このように、仏は「心に相を取る(心が
相に執着する)」こと、「法に相を取る(教えや概念を固定的に捉える)」こと、「非法
に相を取る(否定や空無そのものを執着する)」ことのいずれもが誤りであると、繰り返
し説かれているのです。
では、「心に相を取る」とは、具体的にどのようなことでしょうか。ここで言う「心に
相を取る」とは、仏がこれまでに説かれた教えの全てを含んでいます。すなわち、衆生は
相に住して修行してはならない、ということです。例えば、相に執着して衆生を度するこ
となく、相に住して布施することなく、相に執着して自性を観ることもない、などです。
ここで、日常生活の例をいくつか挙げて説明します。たとえば、誰かに悪口を言われた
とき、心の中で激しい怒りが湧き上がったとします。これこそが「心に相を取る」状態で
す。文字どおり、相手の悪口という「相」を自分の心の中に取り込んでしまったのです。
その瞬間、あなたは「自分」「相手」「その言葉」がすべて実在すると思い込んでいます。
表向きは何も言わなくても、心の中はひどく荒れています。しかし、実際にはその言葉を
受け取らなくてもいいのです。なぜそれを宝物のように心にしまい込み、何日も引きずる
必要があるのでしょうか。ある人は「それを空観(くうかん、空と見なすこと)しよう」と
言って、悪口をしっかり覚えておき、座布団の上で自分と相手とその言葉をシャボン玉や
虚空、夢のように思い描こうとします。しかし、たとえシャボン玉や虚空や夢であっても、
それらは依然として苦しみをもたらすのです。本当の空観とは、「受け取らない」ことで
す。心を如如不動のままに安住させること。これが空観の初歩的な状態なのです。
例えば、かつて仏陀が在世中、一人の男が静坐している仏陀の前に走り寄り、長い間罵
り続けました。男が罵り終えると、仏陀は静かに目を開け、穏やかに言いました。「一つ
尋ねよう。もし人が誰かに贈り物をしても、その相手が受け取らなければ、その贈り物は
誰に返すべきかね?」男は「もちろん、贈った者に戻るだろう」と答えました。すると仏
陀はこう言いました。「では、先ほどのあなたの言葉も、私は受け取らない。あなたにお
返しすることにしよう。」
また別の例を挙げましょう。将来やろうと決めたことがあると、そのことをいつも頭の
中で気にし続けて、「まだあのことをやっていない」と悩んでしまう人がいます。体を休
めていても、頭は休まず、眠っていても夢の中で「まだ終わっていない」と飛び起きてし
まう。これも「心に相を取る」という状態です。やるべき時は精進して行い、休む時はす
べてをきれいに手放す。それが大切なのです。
さらに例を挙げましょう。現代ではインターネットが普及し、誰もが日々オンラインで
多くのネガティブな情報に触れます。もしその情報が、自分の過去の経験や記憶と合致す
ると、その情報の真実性を強く信じ込んでしまいます。すると、頭の中がそんな情報のゴ
ミでいっぱいになり、理由もなく疲れたり、気分が落ち込んだりするようになります。も
っと問題なのは、頭の中がネガティブな情報で満たされ、しかも善行を積んでいない人で
す。そういう人は、すぐに自分の周りで他人の欠点や醜い言葉ばかりが目につくようにな
ります。その結果、短気で批判的になり、自己嫌悪に陥り、悩みます。この悪循環で人間
関係や仕事にも悪影響が出て、修行どころではなくなってしまうのです。
かつて、心優しく正直な友人がいました。しかし、彼女はネガティブな情報を頭に詰め
込みすぎ、さらに未来のことをいつも気にかけて、休むことができませんでした。そのた
め、次第に気性が荒くなり、両親や家族との関係も悪くなっていきました。自分を変えよ
うと、彼女は儒教を学び始めました。すると、「自分は親不孝だ。良い娘でも妻でもない」
と思い詰めるようになりました。実は彼女に最も必要なのは、頭の中の負担(いわゆる「在
庫」)を早く取り除くことです。そうしなければ、疲れ果てて崩れてしまい、孝行も責任
も果たせなくなります。もし自分の心の状態を整えられれば、聖人の教えなど必要ありま
せん。彼女の本来の正直さと優しさだけで、きっと良い娘、良い妻になれたはずです。こ
れもまた、「心に相を取る」という状態なのです。
もし私たちが今、「心に相を取るべきではない」という道理を理解したなら、自分の見
たり聞いたり体験したあらゆる境界に対して、心を如如不動に落ち着かせ、取捨分別をし
ないことができます。そうすれば、たとえどんなネガティブな情報に触れても、それが悪
い影響に変わることはなく、私たちの生活や修証を妨げることもなくなるでしょう。
では、「法相を執(と)る」ことと「非法相を執る」こととは何でしょうか?
仏法の最高の見地では、衆生の本性は本来仏です。しかし私たちは、さまざまな相に執
着し、自我や時空の一切を実在するものと見なしています。さらに心の念が境界や認識、
定義に左右されるため、自分を凡夫の衆生だと思い込んでいます。その結果、私たちは幻
境の中で夢を見ているような状態にあります。仏は「衆生の幻心は、なお幻に依って滅す」
と説かれました。つまり、仏が法を説かれるのは、私たちが執着を放下し、取捨を離れ、
幻の夢から醒めるためです。仏法そのものも虚妄であり、執着を手放すまでの仮の道具に
過ぎません。しかし一部の修行者は、仏の本来の意図を理解せず、仏法を知識や理論とし
て捉え、執着や分別の対象にしてしまいます。固定的な学ぶべき「法」や成すべき「仏」
があると考えること、これこそが「法相」に執着することなのです。
実は、この現象は特に末法の時代の衆生に多く見られます。ここで、少し不適切かもし
れませんが、例を挙げましょう。ある人が行き先を知らずに仏に道を尋ねたとします。仏
は「東へ進みなさい」と教え、途中の分岐点も説明し、さらに地図まで描いてあげました。
ところが、この人は東へ向かわず、その場でぐるぐる回りながら興奮して言います。「こ
れこそ正しい見地だ!仏は偉大だ!どうして仏は知っていて、私は知らないのか?私と仏
は何が違うのか?仏はどうやって知ったのか?この大切な教えは暗記しなければ!」もし
彼がいつまでもその場を回り続け、頭の中に知識だけを積み重ね、「法の宝を得た」と思
い込んでいても、一歩も東へ進まなければ、仏の指導は無意味です。また、仏の指導の仕
方は相手によって異なります。明日、道を尋ねるのが猿や海亀なら、仏は山道や海路を示
すでしょう。もし鳥なら、空を飛ぶように指示するかもしれません。ですから、仏法には
固定的な法などないのです。
仏が説かれる一切の教えは、ただ私たちの迷いを捨てさせ、気づかない盲点を明らかに
するためのものです。もしその意味を理解したなら、すぐに執着を手放し、実際に行動に
移すべきです。先ほどの例の人が、教えを受けたらすぐに東へ歩き出すべきだったのと同
じです。そうしなければ、仏の懇切な指導も、せっかく描いてもらった地図も、無意味に
なってしまうでしょう。
同様に、仏法を学ぶ人が、それを理論の研究や崇拝の対象にして、「無上の真理を得た」
と思い込むだけでは、少しの欲望や執着も手放せず、菩薩道を行わなければ、それは「法
相に執着している」ことになります。そのような修行では、最終目標である無上正等正覚
を成就することはできません。
これに対し、もし衆生が仏の「衆生は本来仏である。仏法も虚妄であり、一切の相は虚
妄不実である」という教えを聞いて、次のように誤解するなら、それは「非法相(ひほう
そう)」に執着することになります。すなわち、「修行も必要ない」と考え、これ以上仏
法を聞かず、福徳も積まず、因果も恐れず、すべてを自然のままに任せ、自分の行為をた
だの随縁(ずいえん)だとして、それで無上正等正覚が成就できると信じることです。し
かし、衆生の妄心による迷いの夢から醒めるには、やはり仏の正知正見に依拠し、精進し
て修行するしかありません。そして、目覚めた後で初めて、一切の相が虚妄であり、修行
や証悟のプロセス全体もまた夢の中で行われていたことに気づくのです。
この品の最後で、仏は阿羅漢の弟子たちに一つの譬えを説かれました。仏法を川を渡る
ための船に譬え、弟子たちに「法相に執着してはならない」と教えられました。「川を渡
り終えたなら、船は捨て去るべきです。岸にまで担ぎ上げてはなりません。」もし、衆生
を生死の川から渡すための仏法でさえ、時が来れば捨てるべきだというなら、ましてや私
たちを輪廻に縛り、苦しめる一切の不正見はなおさらです。それらはすぐに捨て去るべき
です。