「須菩提よ、もし人『仏は我見・人見・衆生見・寿者見を説きたもう』と言わば、須菩
提よ、意においていかに。この人は我が説くところの義を解せるやいなや。」「いななり、
世尊よ。この人は解せざるなり。如来の説きたまうところの義を。何を以ての故に。世尊
は我見・人見・衆生見・寿者見は、すなわち我見・人見・衆生見・寿者見に非ずと説かれ
たればなり、是れを我見・人見・衆生見・寿者見と名づくるなり。須菩提よ、阿耨多羅三
藐三菩提の心を発する者は、一切の法において、まさにかくの如く知り、かくの如く見、
かくの如く信解して、法相を生ぜざれ。須菩提よ、言うところの法相とは、如来はすなわ
ち法相に非ずと説けり、これを法相と名づく。」
この品の大意は、次の通りです。仏陀が須菩提に問いかけられました。「須菩提よ、も
し誰かが『仏は我見・人見・衆生見・寿者見について説かれた』と言うなら、須菩提よ、
どう思いますか。その人は私が説いた法の意味を理解していると言えるでしょうか。」
須菩提は仏陀に答えました。「世尊、その人は理解していません。なぜなら、世尊が『我・
人・衆生・寿者』とおっしゃるのは、それらを実体として探求するためではありません。
ただ言葉の上の方便として、仮に使っている名称にすぎないからです。」
仏陀は仰いました。「須菩提よ。最高に円満な悟りを起こす者は、あらゆる法について、
このように認識し、このように見、このように理解しなければなりません。一切の存在現
象に対して、妄りに(みだりに)分別を起こし、執着してはいけません。須菩提よ。いわ
ゆる『一切の存在現象』とは、如来の説くところでは、実体としての真実はありません。
ただ世俗に順じて、仮に『存在現象』と名づけているにすぎないのです。」
まず、皆さんに注目していただきたい点があります。仏はこれまでの説法では、常に「我
相・人相・衆生相・寿者相」と説いてきました。しかし、この品では「我見・人見・衆生
見・寿者見」となっています。言葉の意味から言えば、「相」とは、すべての現象を指し
ます。例えば、形、状態、体験、定義、知見、情報などです。その範囲は広いです。一方、
「見(けん)」とは、思想や見解を意味します。例えば、私たちが心理学や哲学などを探
求して得た考え方も、すべて「見」に含まれます。
そして、仏はこの品で須菩提にこう言いました。「もし人が『仏は我・人・衆生・寿者
について探究し、自分の考えを述べている』と言うなら、その人は私の教えを理解してい
ると言えるでしょうか。」
須菩提は答えました。「いいえ、世尊。その人は仏陀が説かれたことを理解していませ
ん。」
この経文では、次のような言い回しも使われています。「我見・人見・衆生見・寿者見
は、すなわち我見・人見・衆生見・寿者見ではない。だから仮に我見・人見・衆生見・寿
者見と名づけるのです。」
如来の説法は、衆生が「我・人・衆生・寿者」という幻の世界に執着するのを破るため
のものです。弟子たちとこの四つの「相」について議論したり、研究したりするのが目的
ではありません。弟子たちは如来の教えを聞き、これらの四相が虚妄であると悟ります。
その結果、執着を捨て、如来の真空の境地に安住します。そうすれば、外の出来事に心を
動かされず、形や相に迷わず、無我・無人の状態になります。しかし、もし如来の教えを
ただの理論として研究し、仏を思想家や理論家だと考えるなら、それは間違いです。その
人は仏が何を言っているのか、本当には理解していません。
そのため後世では、ただ空有を論じるだけで、実践を伴わない信徒のことを「知解宗徒
(ちげしゅうと、知識や理解だけに偏った修行者)」と呼びました。仏の般若智慧(はん
にゃちえ)は、最終的には実践に生かされなければなりません。ですから、仏経の最後に
は必ず「信受奉行(しんじゅぶぎょう、教えを信じて受け入れ、その通りに実践すること)」
と記されているのです。
もし、まだ執着を手放していないなら、仏の説かれた真意を本当に理解しているとは言
えません。執着を手放すためには、仏法の学びそのものにも執着してはいけません。たと
えば、棘を抜くのに針を使います。しかし、棘が抜けたら、針も一緒に手放さなければな
りません。もし私たちが、仏の般若智慧によって、自らの分別や執着を取り除こうとしな
いとします。また、自分の無明を照らし出そうともしないとします。それなのに、ただ仏
が何らかの理論や思想を述べていると考えるなら、それは如来の真の教えを理解している
とは言えません。
仏陀は続けて、こう要約されました。「須菩提よ。阿耨多羅三藐三菩提の心を発する者
は、一切の法について、次のようにしなければなりません。このように知り、このように
見、このように信じて理解し、決して法相(ほっそう、法という相、すなわち仏法には定
まったものがあると執着すること)を生じてはいけません。」
この一品は、昭明太子によって「知見不生分」と題されています。個人的には、とても
良い題名だと思います。
仏陀はこれまで果位の境地についてお示しになってきました。そして、弟子たちにこう
教えられました。「如来の真空の境地には、知見というものはありません。」ですから、
あなたは「如来真空の境地」の中に、「空」や「有」、あるいは「非空非有」、さらには
「縁起性空(えんぎしょうくう)」といった知見があると考えてはいけません。経文の前
半で、如来は「如来は法を説いていない」と繰り返しおっしゃいました。それは、弟子た
ちが「得るべき仏法がある」と執着する心を捨てさせるためでした。ここで仏陀は、果位
の境地に立って、如来の真空中では万法さえも生じないことを、弟子たちに明らかにされ
ます。如来は、一つの法も生じないという根本の立場に立ちながら、万法をはっきりと示
し、「空」や「有」について説かれます。それはただ、衆生が迷いから覚めるためだけの
ものです。そこには、縁起(えんぎ、すべての現象は原因や条件によって生じるという法
則)もなければ、性空(しょうくう、空である本質)もないのです。
「知見」という言葉を聞くと、禅宗の六祖を思い出します。この大菩薩は、仏の心法(し
んぽう、仏の教えの核心。心の本質を直接に指し示す悟りの法門)を伝えるときに、あえ
て「字が読めない」という姿を示しました。それは、弟子たちに「文字」という相への執
着を手放させるための、上手な方法だったのです。
如来の最終的な真空境界では、あらゆる「概念」を完全に手放します。弟子たちは、法
を聞いて悟りを開いたとしても、「得るべき仏果はない」「仏法に執着してはいけない。
仏法に決まった形もない」ということを知ります。しかし、そうした理解そのものも、や
はり「知見」の域を出ていないのです。
仏は「縁起」を説き、「性空」を説かれました。しかし、「如来の真空境界」には、「縁
起」も「性空」もないのです。
「如来の真空境界」においては、万法は平等であり、生じることがありません。この世
界は、『法華経』に説かれる通り、「如是相(物事の姿が、そのまま仏である)、如是
性(物事の本性が、そのまま仏である)、如是体(物事そのものが、そのまま仏である)、
如是力(物事が持つ潜在的な力が、そのまま仏である)、如是作(その力が実際に外に現
れた働きが、そのまま仏である)、如是因(物事の原因が、そのまま仏である)、如是縁
(物事を成立させる条件が、そのまま仏である)、如是果(物事の結果が、そのまま仏で
ある)、如是報(物事の報いが、そのまま仏である)、如是本末究竟(最初の「相」から
最後の「報」まで、これらすべては究極において平等であり、そのどれもが同じく仏にほ
かならない)」なのです。
すなわち、相・性・体・力・作・因・縁・果・報という、万法の初めから終わりまでを、
あるがままに知り、あるがままに見、あるがままに信解すべきです。法相を生じではなり
ません。
すべての修行も、すべての説法も、すべての執着を破ることも、すべての知見も、すべ
ては衆生が夢の中で行い、夢の中で聞き考え、夢の中で悟るものです。そして最後には、
悟りというものさえも存在しないのです。
万法はもともとそのままの姿であります。万法はすなわち如来そのものです。これが「法
相(ほっそう)を生じないこと」であり、これが「開悟(かいご)」なのです。しかし、
開悟といっても、それは実体としての開悟ではありません。ただ仮に「開悟」と名づけて
いるだけです。また、法相といっても、それは実体としての法相ではありません。ただ仮
に「法相」と名づけているだけです。