『金剛経』を読み終えたある修行仲間がこう言いました。「仏が『すべての相は虚妄である』と説かれたのを聞いてから、人生に情熱を持てなくなった。すべてが虚ろに感じられ、生きる意味がわからなくなった」と。しかし実は、この方は「すべては虚妄である」という教えそのものに、また新たな「相」として執着してしまっているのです。
そもそも『金剛経』は、発心して仏の悟りを求める善男子・善女人のために説かれた経典です。したがって、そこで示されている見地はすべて、弟子たちが執着を手放し、如来の知見に安住するためのものです。人は生まれ変わり死に変わる生命の流れの中で、絶えず自分の好むものを追い求め、執着し、占有しようとします。その過程で、絶えず自我を定義し、再構築し、肯定し続けているのです。そこで仏は、「身心の内外にあるものはすべて虚妄であり、実体ではない」と説かれました。この教えによって、弟子たちは、独楽のように回り続ける生命の流れから立ち止まることができるのです。身心の内外すべてが虚妄であるなら、何にこだわり、何を求め、何を得ようとするのでしょうか。そうすることで、心は「一切は虚妄である」という見地に安住します。そのとき、人は内外のあらゆる境に対して、執着したり、得ようとしたり、取捨選択したり、分別したり、渇望したりすることがなくなります。これこそが、仏法の修証における真の「止(し)」です。すなわち、「止観(しかん)」の「止」とは、単に雑念が静まるということではありません。無明から生じる妄心や過去への執着、未来への恐れなどを根本から止めることを意味します。弟子たちは、仏の「空性の見地」を聞いて、生命の輪転がぱったりと止まりました。そして、身心やこの世界に対して抱いていた「いつも何かが足りない」という不満の中から、不平を言うこと、奪い取ること、頭で考えこむことを、すべてやめたのです。
「止」の修行を始めたばかりの頃は、欲望や習気(じっき)がまだ完全には消えておらず、覚受(かくじゅ)も残っています。そのため、たとえ正しい見地を持っていても、弟子たちはいつでも誘惑に引きずられ、再び輪廻の流れに巻き込まれることがあります。そのような時は、何度でも覚照(かくしょう、心が対象を明らかに見つめ、智慧によってその本質を照らし出す働き)し、求める心、得ようとする心、追いかけて所有しようとする心を、その都度打ち止める必要があります。また、何度も生まれ変わりを繰り返してきた慣性(習性)のため、「止」を始めたばかりの頃は、内外の境に心を動かされず、仏の知見に安住しようとすると、しばらくの間、体が疲れ、頭が鈍く、すべてが味気なく感じられる時期があります。このときは、ぜひ禅定の修行を続けることが大切です。できれば座ったまま(座禅)で修行するのがよいでしょう。この状態は、頭がようやく輪廻や求めを止めようとしているが、修行者の心と気がまだ散乱しているために起こります。もし強い昏沈(こんちん、心が沈み、眠気やぼんやりした状態になること。禅定の妨げとなる)や眠気を伴うなら、気脈(きみゃく、体内を流れる「気」の通り道。中医学でいう経絡に似た概念)が濁っているからです。その場合は、食事を控えめにし、菜食を心がけ、心を清らかに保つようにしてください。つまり、仏の正しい知見と定力の両方が備われば、この一時的な灰色の期間は過ぎ去ります。すると、行者は光明や禅悦の状態に入り始めます。そうして初めて、行者は仏の「般若智慧」の中に、真の楽しさの一端を味わうことができるのです。
したがって、「般若智慧(はんにゃちえ)」を学び始めたばかりの人、特に意識のレベルで聞いただけの人は、断空(だんくう、すべてを無と見なす偏った空の見解)の暗い境地に入りやすいです。これはつまり、行者が日常生活の中で新たに「すべては虚妄である」という幻の世界を作り上げてしまうことです。そうなると、すべてに興味を失い、人生のすべてが味気なく、色を失ったものに感じられます。そこで仏は、大乗の弟子たちに般若智慧を証得させるために、六度(ろくど)——すなわち布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若——を説かれました。般若が最後に置かれているのは、般若智慧が重要でないからでは決してありません。般若を円満に悟り証得するには、その前にある布施・持戒・忍辱の功徳を土台とし、さらに精進(しょうじん)の修行と、しばらくの間妄心(もうしん、迷いの心)を止めることが必要だからです。そうして初めて、仏の説かれる般若の空性を聞いた後、真の出離心(しゅつりしん)が生まれます。そして、心の中の執着や固執するすべてを手放すことができます。そうすれば、「万物はすべて虚妄である」という幻の世界に陥ることも、味気なく偏った空の世界に入ることもありません。仏法の修証全体において、行者は常に仏の果位の見地に安住して、菩薩道を修行していくことが大切です。
さらに、仏は『金剛経』の中で「あらゆる相は虚妄なり」と説かれ、その後にこう続けられました。「もし諸相は相に非ずと見るときは、すなわち如来を見る」と。つまり、この世界のあらゆる現象に執着しなければ、私たちは生命の源に戻ることができるのです。そうすれば、本当の自分——智慧と慈悲にあふれ、苦しみや悩みがなく、時間や空間という幻の世界に縛られない「如来」——になることができるのです。だからこそ、仏の説かれる「般若智慧」は、決してこの世界や人生を否定するものではありません。むしろ、弟子たちに生命の源へと帰る道を示しているのです。
ある友人がこう言いました。「仏は修行によって『大自在(だいじざい)』を得られると説きますが、実際に仏法を学び始めてから、かえって窮屈になったように感じます。私たちの生活はもともと大変なのに、仏法ではさらに様々な欲望を抑え、たくさんの戒律を守り、いつも利他(りた、自分の利益ではなく、他人の幸せや利益を優先すること)を心がけるように求められます。その上で、自分の習気(じっき)や欲求を抑え込み、取り除くように修行することが求められます。しかし、人間というものは、本来そうした欲求や習気を満たすことで刺激や楽しみを得て生きているのではないでしょうか。それを手放せというのは、まさに人間の本性に反することを強いているのではないでしょうか。」
仏は大慈大悲のお方です。すでに生老病死(しょうろうびょうし)の苦しみの海に沈む衆生に対して、どうしてさらに「小さな情」「小さな欲」「ささやかな楽」を奪おうなどなさるでしょうか。ただ、仏はご存じなのです。私たちの欲望や習気(じっき)こそが、私たちを生生世世(しょうじょうせぜ)にわたって共業(くよう)の海に漂わせています。それは、方向も定まらず、自分で舵を取ることさえできない一葉の浮草のようなものです。この世では、洪水、地震、津波、疫病、戦争、さらには宇宙のあらゆる変化が、簡単に私たちの命を奪います。また、欲望と習気は、さまざまな個業(こごう)を積み重ねさせます。その業にしたがって、私たちは生生世世、異なる「自我」となって輪廻し続けます。それらの「自我」は、生滅・変異・得失のただ中で、言葉にできないほどの苦しみを味わっているのです。仏が私たちの生きる世界を「苦海(くかい、苦しみが果てしなく広がる大海)」と説かれるのは、決して物事を一方的に見ているからではありません。私たちがまさに苦しみの海の中にいるからです。そこに現れては消える束の間の喜びや刺激は、決して執着する価値がないと仏は示されます。たとえ一生涯にわたって快楽や刺激に満ちていたとしても、善果(ぜんか、善い行いの結果として得られる福徳)を使い果たせば、やがては地獄へと赴くことになります。そして、三悪道(さんあくどう)(地獄・畜生・餓鬼)で受ける苦しみは、筆舌に尽くしがたいものがあります。地獄や餓鬼は目に見えませんが、畜生道を見ればその苦しみは明らかです。生生世世にわたって流してきた血と涙の量を、人間界や天界のわずかな喜びで忘れ去ることができるでしょうか。それらはすべて情報として私たちの意識に残り、因縁(いんねん、原因や条件)が熟すときには、必ず結果として現れてくるのです。時には、まだ三悪道に堕ちていなくても、その苦しみの覚受(かくじゅ)だけが先に訪れることさえあります。
仏は私たちを苦海から出離させ、生滅輪廻の幻境から目覚めさせようとされているのです。仏がこの世に現れるのは、『法華経』に説かれるように、四つの理由によるものです。すなわち――
衆生に本来備わる仏の智慧を開かせるためです。
衆生に如来の知見を示すためです。
衆生に如来の知見を悟らせるためです。
衆生を如来の知見の道に安住させ、身心ともに大いなる自在を得させるためです。
だからこそ、仏がこの世に現れたのは、人間の欲望や習気と対立するためではありません。戒律を定めたのも、弟子たちを戒めで縛るためではありません。また、仏はただ人間の倫理道徳を説いたり、「万悪は淫欲が元だ」としてすべての人に情欲を断ち切らせようとしたりしているのではありません。仏が本当に伝えたいのは、衆生が時空の幻境から解脱する方法です。最終的には、衆生が功徳によって現れた世界にいようと、共業によって現れた世界にいようと、心身ともに大自在を得られるようにすることです。そのためには、衆生は生命の源に戻り、万物や自分の実相(本当の姿)を見抜く必要があります。しかし、人間はあまりにも好き勝手に振る舞い、自分勝手です。所有欲や征服欲など、さまざまな欲望が強すぎます。永遠に満たされない自我の欲望が、人間に時空の幻境の中の名声・利益・愛情など、好きなものをむさぼらせます。その結果、人間はこれらのものに引きずられて輪廻し、煩悩や苦しみを生み、様々な邪見(間違った見解)を起こします。そして、本来の清らかで汚れのない、生まれも滅びもしない境地に戻れなくなってしまうのです。だからこそ、仏は戒律を定め、私たちの習気を抑えるように教えられたのです。
仏は「諸法性空(しょほうしょうくう、万法には固定された実体がなく、その本質は空であること)」を説かれました。なぜなら、時空の幻境と人の迷いの心は数えきれないほど多く、それらを一つひとつ手放そうとすれば、無限の時間がかかってしまうからです。仏は「衆生の幻心(げんしん、迷いの心。幻のように実体のない心)は、また幻に依って滅す」と説かれました。そのために、仏法や経・律・論があるのです。これらはすべて、衆生の迷いの心を対治し、導くためのものです。般若の智慧を学ぶことで、修行者は一時的に心を仏の見地に安住させ、世俗への求めや得ようとする心、そして貪りの心を手放すことができます。弟子たちの「心」は、まず仏の果位の見地に安住して、精進してすべての善法を行じることで、速やかに我執(がしゅう)を破り、仏果を成就することができるのです。
人道において、仏は幻の境に執着する衆生の心に向けて、「縁起性空(えんぎしょうくう、すべてのものは縁によって生じ滅し、その本質は空であるという教え)」の般若智慧を説かれました。人は自分自身や外の世界に対して尽きることのない好奇心を抱いています。「すべてはどこから来たのか」「何によって起きたのか」「最初の人間はどこから来たのか」と絶えず問い続けます。人類の歴史には、宇宙のビッグバン説、進化論、神による創造など、無数の答えがあります。しかし、それらの答えに対して、「では神はどこから来たのか」という問いも生じます。仏は弟子たちに「縁起性空」を説かれました。如来が人を造ったとは言わず、如来と衆生は平等であり、すべての衆生に如来の本性が備わっていると示されました。しかし、仏は「第一の因」、すなわち最初の縁がどこから来たのかについては語られません。なぜなら、第一の因縁は言葉では言い表せないからです。それは実在するものでもなく、虚空や虚無でもなく、この世のいかなる言語・文字・名相によっても定義できません。語ろうとすれば、すでに誤りになってしまうのです。仏はただ、「すべては縁によって生じ、縁によって滅し、その本質には自性(じしょう)がない」と説かれ、万物の本質は虚妄にすぎないと教えられました。仏の「縁起説」は、現代科学の宇宙起源論に最も近い見解です。この「縁起性空」の理論によって、弟子たちは時空や時空の中の一切に執着せず、求める心や得ようとする心を手放し、平等心(びょうどうしん)を得ることができます。そうして初めて、人は時空の中で、欲望の支配や生死の輪廻から身心を完全に解き放ち、大自在(だいじざい)を得ることができるのです。
ここで、かつて見た量子力学のある実験映像を思い出します。その実験では、結果が実験者の「観測」と関係しているように見えました。誰かが見ている場合と、誰も見ていない場合では、実験結果が異なるのです。おそらく、異なる心識(心の働き)を持つ衆生が見れば、その結果もまた異なるのでしょう。仏教では、三界六道のそれぞれの世界の形成は、その世界の衆生の心識に関わり、またそれぞれの自我にも関わっています。仏法には「三界唯心(さんがいゆいしん)、万法唯識(まんぽうゆいしき)(三界はすべて心から生じ、すべての現象は認識によって成り立つ)」という教えがあります。つまり、「自我」を変えれば、自分の世界のすべてを変えることができます。もしすべての人が「自我」を変えるなら、私たちが共に住み、共に認識する世界そのものも変わるでしょう。そして、最終的に「自我」を手放すことができれば、それはすなわち「無我」の如来の境地です。その境地は、天地と共に輝き、万物の本源と一つであり、不生不滅(ふしょうふめつ、生まれもせず滅びもせず、永遠に変わらないこと)の、永遠で円満な生命へと至るのです。
ある友人がこう尋ねました。「仏が涅槃の際に『戒を師とせよ』と説かれたのなら、厳しく戒律を守るだけで成仏できるのでしょうか。般若の智慧は学ばなくてもよいのですか。」
まず、この言葉には議論があります。なぜなら、どの経典を調べても、仏がこの言葉を正確に説かれた箇所は見つからないからです。仮に仏がそう説かれたとしても、私の考えでは、その真意は違います。「衆生はただ戒に依拠すれば成仏できる」という意味ではないはずです。師である仏が涅槃(ねはん)に入られると、人間の弟子たちは、もはや師の導きを受けられなくなります。師はもう、弟子たちの心の状態を点検してくれません。そんな中で、衆生が悟りへと帰る道の途中で、戒律(かいりつ)は役に立ちます。戒律があれば、感じたままに七情六欲(しちじょうろくよく)の幻の世界に執着して抜け出せなくなったり、道心(どうしん)を失ったりするのを防げます。また、煩悩や障害が絶え間なく生じるのも防げるのです。戒律があれば、修行の生活において外の縁を断ち切れます。また、多くの善業や悪業が成熟して妨げとなるのを避けられます。さらに、行者は修行の過程で、心が散らかることなく、落ち着いて修行できます。戒律は仏の弟子たちを守るためのものです。同時に、我執(がしゅう)を破るための道具でもあります。しかし、弟子たちはまず仏の般若智慧を悟らなければなりません。その上で、戒律によって自らを律する必要があります。それはあたかも、師がそばで見守っているかのように、決して放逸(ほういつ、気を緩めてだらしなくすること)にならないことです。そして、精進(しょうじん)して修行を続けるべきです。そうしてこそ、師がそばで監督しなくても、滞りなく成就できるのです。だからこそ、仏は大乗の菩薩のために六波羅蜜多(ろくはらみつた)という修行法を示されました。それは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若です。戒律だけを説かれたのではないのです。
大乗菩薩が修証する「六波羅蜜多」には、本来、修行の順序があります。しかし、末法の時代になると、仏陀がすでにこの世を去られたため、明師(みょうし、模範となる師や優れた指導者)を見つけることが難しくなりました。また、人間の「自我」は強くなり、出離心(しゅつりしん、輪廻や迷いの世界から逃れ、解脱を求める心)や利他心(りたしん、他人を利益しようとする心)を短い時間で本当に生じさせることが難しくなっています。しかも、仏法を学ぼうとしても、仏の経典から学び聞くしかありません。その結果、多くの大乗の弟子たちの修行の順序は、本来とは逆に、「般若・禅定・精進・忍辱・持戒・布施」という順番に変わってしまいました。しかし、前の五つの修行(前五度)を積まないまま、すぐに般若智慧を学び始めたため、仏の「般若性空」の理論が、頭の中で考えるだけの思弁(しべん、理論的な推理や考察)や理解に終始してしまいました。あるいは、それが人間の世界の哲学や弁証法(べんしょうほう、対立する概念から真理を導く方法)になってしまいました。その結果、仏の説法の本当の目的——「すべての言葉や教えは一時的な仮のものであり、ただ衆生を生死輪廻の苦海から救い出すためである」——が失われてしまったのです。
歴史の記録によれば、仏法がこの世に伝わってから、すでに二千六百年以上が経過しました。輪廻の観点から見れば、末法(まっぽう、仏法の力が衰える時代)に修行する多くの人々は、過去に正法(しょうぼう、仏の教えが正しく行われていた時代)や像法(ぞうぼう、教えは残るが修行者が正法時期より悟りを得にくい時代)にも仏法に触れていた可能性もあります。いわば、いまだ円満に至らぬまま再びこの世に生まれた仏弟子(ぶつでし)にとって、今世の修行は「復習」のような側面があるとも言えるでしょう。そのため、修行の進み方も段階的というより跳躍的なものとなり、大乗(だいじょう)の弟子でありながら、同時に小乗(しょうじょう)や密教(みっきょう)の法門をも兼学することも少なくありません。そうした意味では、現代においては、仏法全体の根幹をなす般若智慧の正しい知見による導きが、これまで以上に重要なものとなっています。
しかし、すべての大乗の弟子は、次のことをよく理解しなければなりません。たとえ出離心(しゅつりしん)と堅固な菩提心(ぼだいしん)を持っていても、過去世の根器(こんき、修行の素質や能力)や禅定力(ぜんじょうりき)だけに頼って如来の智慧を悟ろうとすると、一時的に忘我(ぼうが、自分を忘れること。一時的に自我を超越した状態)の境地から開悟に至ることがあるかもしれません。また、仏法を学ぶ中で、突然法喜(ほっき、教えを聞いて心から喜ぶこと)に満たされ、思いもよらない不思議な境地に触れることもあるでしょう。しかし、功徳資糧(くどくしりょう、悟りを助ける善行や福徳の蓄え)を積み重ねず、戒律(かいりつ)を軽んじるなら、多くの苦難や回り道を経験することになります。その結果、執着(しゅうじゃく)や分別(ふんべつ)を完全に打ち破ることができず、円満な解脱の光を見ることはできないのです。
もし出離心を備えていない衆生がいるなら、その衆生はまだ時空の幻境に執着し、貪りの心を持っています。そのような衆生が仏の「般若性空(はんにゃしょうくう、すべての現象には実体がなく、空であるという般若の智慧)」を理解しようとすると、「一切は虚妄である」と聞いたことで、かえって欲望に歯止めが効かなくなります。欲望のままに生きてしまう危険があるのです。そのような状態では、如来の智慧と慈悲が一体となった円満な境地を悟ることはできません。たとえ「即有即空(そくうそくくう、存在するものはその瞬間にすでに空であるという境地)」を証得したとしても、我執を完全に破ることはできず、ついに成仏には至れません。
ある修行の仲間がこう尋ねました。『金剛経』を学んだ後、仏法とは、衆生の執着を断つための薬であり、病に応じて施されるもので、決まった教えはないと知りました。そして、病が癒えたならば、その薬である仏法さえも手放すべきだと説かれています。それにもかかわらず、なぜ菩薩道においては、特に六波羅蜜が重要な実践として示されているのでしょうか。
たしかに、仏が弟子たちのために説法するのは、病に応じて薬を与えるようなものであり、決まった教えがあるわけではありません。しかし、弟子たちは皆、同じ人道に生まれ、修行しています。その大部分は共通の習気・欲望・執着を抱えており、多くの弟子の修学には共通する障害や問題が生じます。だからこそ、「同じ種類の薬」を使うことができるのです。そこで仏は、大乗の弟子たちのために六波羅蜜を設けられました。これは、弟子たちが普遍的に仏法を修行する過程において、誰もが直面するであろう問題だからです。そして仏は、仏の正知見に依止してこそこれらの問題を乗り越えて我執を破ることができると、弟子たちに教えられました。さらに仏は、法門を設けるにあたって、人道の弟子たちが普遍的に実践できるかどうかを、慈悲深く考慮されました。もし難しすぎて、ほとんどの人がとても実践できないのであれば、その法門は共通して普遍的に用いることができるものとはなりえません。したがって、仏が人道の大乗弟子たちのために設けられた六波羅蜜は、誰もが実践すべきであり、これに依って成就しうる法門なのです。大乗の弟子たちは、このことを大切にすべきです。
以下、簡単に「六度」について述べます。子歸家サイトの『學習佛法(仏法を学ぶ)』というセクションには、「六度」の修証に関する詳細な解説がありますので、ご興味のある方は「ziguijia.com」までアクセスしてご覧ください。
「六度」は「六波羅蜜多」とも称されます。「波羅蜜多」は梵語の音訳で、「彼岸に至る」——すなわち生死の此岸から涅槃の彼岸に至ることを意味します。漢訳では「度」と意訳され、「渡る」「至る」という意味です。「六度」とは、大乗菩薩が解脱へと向かうための六つの実践法門を指します。
第一の方法:布施
菩薩が仏果を成就するためには、まず「自我」と「三界六道の一切」を捨て、「出離心(しゅつりしん)」を起こすことが大切です。この「捨てる」ことと「出離心」こそが、菩薩の大いなる布施(ふせ)です。ただし、現代の日常生活における大乗の修行者の布施は、自分の身体や命、あるいは世俗のすべてを極端に捨て去ることではありません。一般的な行者は、自分が持っているものを無私の心で、助けを必要とする人に与えればよいのです。たとえ財物がなくても、自分の労働や才能、あるいは微笑みや一緒に喜ぶ言葉などを布施することができます。これらは誰にでもできることです。
布施とは、修行者の「貪欲」と「得失の心」を対治するための実践です。菩薩が初めて三界六道を出て輪廻から解脱しようと発心しても、この世にはどうしても手放せないものがあります。自分の好きなものを布施しようとすると、どうしても心が揺れ動き、迷い、悩みます。たとえ自分の労力を使うだけのことであれ、ちょっとした手助けであれ、「なぜ自分がこんなことをしなければならないのか」と考えてしまいます。たとえ「一切は虚妄である」という仏の正しい見方を持ち、輪廻を出たいという道心があり、三輪体空(さんりんたいくう、施す者・受ける者・施す物のすべてが空であると観じること)の布施を目指していても、捨てることや与えることは、修行者の「自我」を強く揺さぶります。しかし、修行を続けていくうちに、与えることや捨てることの影響は次第に小さくなっていきます。やがて仏果を成就し、如来の境地に戻ったなら、自我に関する一切を捨て、布施しても、もう恐れや不安はありません。得失の悩みもなく、見返りや理解、感謝などを求めることもありません。このとき、修行者の功徳は円満し、布施度(ふせど、布施波羅蜜多のこと)によって仏の空性を証得することができます。三界六道の一切は、修行者にとっては畢竟空(ひっきょうくう、すべての現象の本質には固定された実体がなく、究極的に空であること)であり、その証量の境界は計り知れないほど深いものなのです。
第二の方法:持戒
行者は、仏が説かれた「身心内外すべては虚妄であり、相に執着すべきではない」と理解していても、欲望や習気(じっき、長い習慣として身についた心の傾向)がまだ尽きていません。そのため、世の中のあらゆる誘惑は依然として強く作用します。自制心や耐性を超える誘惑に直面したとき、仏の見地は頭から消え去ります。すると行者は、三界六道の一切に執着し、道心(悟りを求める心)を失い、出離心すら生まれなくなってしまいます。しかし、もし行者が戒律(かいりつ)を受けていれば、破戒した際に後悔の念が生じます。また、恥じ入り、懺悔(さんげ、自分の過ちを認めて反省すること)し、過ちを改めようとする心が起こりやすくなります。あるいは誘惑のただ中で、仏の定めた戒律を思い出し、「破戒したくない」という思いが歯止めとなり、誘惑を退けることもあります。とりわけ仏陀が在世の時代には、弟子が戒を受ける際、仏陀ご自身や果位を証した大阿羅漢たちが授戒(じゅかい、戒律を正式に受け入れ守ると誓う儀式)に列席し、その後も行者が戒を持ち続けているかどうかを監督してくださいました。それによって行者は、仏陀や戒律を厳守する聖なる同修たちの前で、戒条の定める一切を遵守すると誓ったことになります。そのような力と加持(かじ、仏の力が加わり修行者を支え守ること)は、後に行者が世俗のさまざまな誘惑に抵抗する際の大きな支えとなります。中には、命を賭しても戒を破らない者もいたほどです。
第三の方法:忍辱
行者が輪廻からの出離と仏果成就を発心したとき、最初の段階では自らの習気(じっき)や欲望と真っ向から対立するかのようです。この時、仏の正しい知見を持っていても、身心には覚受(かくじゅ、感じや体験)があります。例えば布施や持戒の際には、なお自分の貪欲・執着・身心の思いのままの放縦などを克服しなければなりません。このように、仏の正しい知見の指導のもとで、自分の覚受を抑えることを「忍辱波羅蜜多(にんにくはらみつた)」と呼びます。また、行者は輪廻を出離しようとしながらも、依然として世の中のさまざまな関係の中で生活しています。私たちが手放そうとしても、縁ある衆生はそれを許しません。なぜなら、私たちのすることが彼らの利益や欲望に触れる可能性があるからです。例えば、父母、妻、夫、子供などは、私たちに親情を最優先にし、彼らの認識・観念・欲求を満たすことを求めます。もし私たちが修行のために一時的に彼らの求めに応えられなければ、彼らは怒り、悲しみ、傷ついたと感じ、「不孝だ」「親情や家庭を顧みない」「自分勝手だ」などと言うでしょう。また、友人たちが私たちに付き合って賭博や買春、飲み食いや遊びに行くことを求めるのに、私たちが坐禅をし、菜食をし、清らかで欲の少ない生活を送ろうとすれば、中には私たちを「義理がたい」と感じ、皆と楽しめないと言う友人もいるでしょう。さらには、「清高ぶっている」「取り繕っている」「偽善的だ」などと言い、理解されないために、誹謗(きぼう、悪く言うこと)や中傷(ちゅうしょう)の言葉さえも発せられるかもしれません。このような時、行者は忍辱(にんにく)を修め、仏の知見をもって修行を続け、慈悲を保てばよいのです。
第四の方法:精進
大乗の行者は、いかなる時も成道の心を失いません。成道を第一とし、仏の知見に従って、念念覚照(ねんねんかくしょう、心を起こすたびに、自分の状態を観察し、仏の教えに照らし合わせること)します。欲望や習気、自我の執着がもたらす無明をできるだけ早く除き、心を仏の知見の道に安住させ、絶えず修行を続けること――これを真の精進と名付けます。人間の寿命は有限であり、そのうえ人生の禍福は測り難いものです。すべての仏弟子は、自らが人道において修学できる時間がどれほどあるかを予知することはできません。また、執着・分別を破り尽くし、無我の涅槃境界に入るまでにどれほどの時間が要るかもわかりません。しかも、娑婆世界の欲界においては、人道こそが仏法を修行するのに最も良い場所であり、最も出離心が生じやすく、しかも修行するための種々の条件を備えています。もし天道に輪廻すれば、楽しみが大きすぎて出離しようと思いません。地獄・餓鬼道に輪廻すれば、苦しみが大きすぎて出離する力がありません。畜生道に輪廻すれば、あまりに愚かで仏法を聞き理解することもできず、修証する条件もありません。ゆえに、人道において仏法を聞くことができるのは大きな福報であり、したがって精進せねばなりません。一度この人身を失えば、おそらく長い間、修行することはないでしょう。
第五の方法:禅定
行者は、仏の見地を了知した後も、菩薩道全体の修証において、仏の正しい知見はまだ頭で理解しただけの段階です。まだ「諸相の虚妄」を証得しておらず、三界六道から解脱していないため、この世界のすべてが常に誘惑となります。身心の世界は罠だらけで、行者は自分の覚受や知見に囚われ、なかなか解脱できません。そのような時、行者は禅定力を合わせて修行する必要があります。禅定(ぜんじょう)があれば、誘惑や覚受に抵抗する力が大きく高まります。また、神通力を得ることもできます。さらに、「定(じょう)」は行者本来の智慧を開き、万法の実相をより見極めやすくします。その結果、般若智慧への悟りがより深く、より円満になるのです。
第六の方法:般若
すなわち、これは仏の果位の見地のことであり、また仏が衆生を仏の境地へ導くために設けた様々な善巧方便(ぜんぎょうほうべん)の開示や法門も含まれます。『金剛経』と『心経』は、いずれも般若智慧を説いた経典です。すべての仏弟子(ぶつでし)は、仏の果位の見地に頼り、自分の日常の修証を導くべきです。そうすることで、速やかに如来の品質や果位へと戻ることができ、「修行」がただの輪廻の中での善業に終わることを避け、解脱へと向かうことができるのです。
また、別の同修からこんな質問がありました。「仏法の修行において、高等教育を受けた人は、般若智慧に対する理解や習得がより速いのでしょうか。」はい、確かに高等教育を受けた人や科学者、哲学者などは、仏の般若智慧を理解するのが速い傾向があります。特にインターネットの時代になり、情報量が多く、伝わるのも速くなりました。そのため、現代人の観想力(かんそうりょく、心にイメージを描く力)は、これまでのどの時代よりも強くなっています。また、より多くの角度から仏の教えを聞き、考えることも可能です。しかし、だからといって、すぐに成仏できるわけではありません。なぜなら、その理解はまだ意識のレベルにとどまっているからです。本当の般若智慧は、教えを聞いて理解した後に、「自己への執着を手放す」ことを求めています。この点では、高等教育を受けた人が必ずしも有利とは限りません。彼らはむしろ、プライドや尊厳、傲慢さ、偏見、優越感、嫉妬など、手放しにくいものを多く持っている可能性があるからです。むしろ、日頃から人間として正直で、善良で、誠実であり、「自分が正しい」という知見が少なく、進んで無私に人を助けるような人——それが博士であろうと、小学生であろうと——こそ、一度仏の教えを悟れば、自己への執着を速やかに手放し、成道へと至ることができるのです。
ですから、仏の弟子の中には、乞食や遊女など、社会の最底辺で暮らし何の教育も受けていない人もいれば、舎利弗や目犍連のような学術の巨匠、あるいは皇族や王族といった十分な教育を受けた人もいます。そして、成道の前には、彼らはほぼ平等です。しかし、このことから修行者は、世俗の才知や様々な技芸・技能を身につけることを否定し、「成仏するためには世間の他の学問は学ぶ必要がない」「学校に行かなくてもいい」と考えるべきではありません。特に大乗菩薩は、「法門無量誓願学(限りなく多くの法門を学ぶことを誓う)」というように、世間の学問を多く身につけることは、仏法を広めて衆生を利益することにおいて虎に翼を得たる如く、より多くの善巧方便(たくみな手段)をもって衆生を導くことができるようになるからです。
しかし、たとえ誰であっても、布施・持戒・忍辱・精進・禅定といった前五度の修行を経なければなりません。それを経ずして、この世の知恵や才覚だけで仏の智慧を完全に悟ってそれに契入(自分の心と完全に合って一体化すること)しようとしても、円満に達成することは難しいでしょう。たとえ再来の大菩薩であっても、末法の時代においては、前五度の修証を通じて、自我がもたらす幾重もの障害を突破しなければ、自性如来を証することはできません。そうでなければ、たとえ説法がどんなに華麗で上手に行われても、それはあくまで仏が証得された境地を語っているに過ぎず、自らが証得したものとは言えません。当然、如来の果位における証量と品格を具えることもないのです。
仏はこう説かれました。私たちの自性、すなわち「生命の源」は、本来、言葉で表現できるものではありません。なぜなら、どのように定義しても、六道それぞれの衆生は、自分の理解に応じて、異なる境地や相状(すがた・状態)を形作ってしまうからです。しかし、すべての衆生の源は一つです。そして、すべての衆生は、最終的にこの源へと還っていきます。なぜなら、それは生命の最も深いところにある心の底からの願いであり、生命が飽くことなく探し求める、これ以上何もいらないという最も幸せな状態だからです。さらに、如来の境地においては、万法は本来、その源を離れたことがありません。来たるところもなく、去るところもありません。それゆえに「如来」と称するのです。
そういえば、昔、私には悩んでいた時期がありました。生命の究極的な意味とは何なのか。人はなぜ生きるのか。そんなことを考えていました。そして、考えた末に、ある結論にたどり着きました。それは「生命そのものには意味がない」ということです。生命の意味は、すべてあなた自身が与えるものなのです。あなたがどのように人生を歩むかで、あなたの生命にどんな中身や意味が生まれるかが決まります。
その後、仏法を学んでいるときに、仏がこう説かれているのを聞きました。「人の中には、人生を楽しむための、固定して変わらない『自分』など存在しません。また、楽しませてくれるための、固定して変わらない世界や万法も存在しません。私たちの心と体、そして心と体の外にある世界のすべては、因果に従って現れる、縁の集まりであり、また縁が尽きれば散っていくものです。そこには、本当にすべてを支配している『主人』のようなものは存在しません。」このことを理解すれば、私たちは、縁によって生まれ、縁によって消えていく、さまざまな幻のような世界から目覚めることができるのです。人間が、輪廻という時間と空間の幻の世界から目覚め、心も体も完全に、こうした幻の世界に影響されなくなったとき、その人は「仏」と呼ばれます。また、「本当に生命の終点に到達した者」とも、「生命の源に戻った者」とも言われます。全ての衆生の生命は、ここで本当に終わるのです。このことを仏法では、「不生不滅(生まれることも滅することもない)の涅槃境界(ねはんきょうかい、迷いや苦しみを完全に超えた悟りの境地)に入る」と説きます。また、「生死を解脱した彼岸に到達する」と呼びます。
仏法を聴いて理解した後、私はこうわかりました。かつて私が人の世界で生命の意義を見つけられなかったのは、次の理由からです。私が、一瞬も止まらずに生まれ変わり滅していき、しかも限界のある眼・耳・鼻・舌・身・意を、自分自身だと思い込んでいたからです。さらに、この六根に基づいて作り上げられた世界の万法(すべての現象、具体的には仏法でいう色・声・香・味・触・法という六塵)を、真実のものだと執着していたからです。こうして六根と六塵が向き合うことで、自分という世界が作られていました。しかし、この世界は本質的には虚妄の上に成り立っており、ただの幻の世界にすぎません。それなのに私は、その幻の世界の中にずっと生きてきました。そして、絶えず生まれ変わり消えていくその幻の世界の中で、完全で永遠な、生命のよりどころとなる究極の意義を見つけたいと願っていました。しかし、それは永遠に不可能なことなのです。
これを理解した後は、たとえ習気や欲望が完全にはなくならず、まだ何かの覚受が残っていても、それらは虚空に漂う浮雲のようなものであり、虚空の広がりや静けさを邪魔することはできません。また、小さな微塵が太陽の光を遮ることができないのと同じです。そして、すべての仮の姿や幻の世界は、修行によって悟りが円満になるにつれて、やがて消えていきます。仏法の智慧によって、私はついにわかりました。すべての衆生の生命の究極的な意味とは、生命の源に帰り、そこに安住することです。つまり、それぞれの衆生が本来の姿である「如来」としてあることなのです。ここに初めて、それぞれの衆生は、絶えず生まれ変わり滅していき、輪廻している自分の生命に、円満な終止符を打つことができます。そして、自分の生命に最高で究極的な意味を与えたことになるのです。
最後に、釈迦牟尼仏に深く感謝申し上げます。鳩摩羅什三蔵法師に深く感謝申し上げます。そして、私の心の中の上師と、龍天護法のご加護に感謝申し上げます。また、この身を授けてくださった両親、そしてすべての衆生に感謝申し上げます。ここに、私が修行し証得した功徳、および法を説くことによって生じたすべての功徳を、法界の一切有情に回向いたします。願わくは、すべての衆生が平安で、健康で、幸福で、喜びに満ちた日々を送れますように!国が安らかで民が安寧であり、仏法が久しくこの世にとどまりますように!