第十品 荘厳浄土分(だいじゅうほん しょうごんじょうどぶん)

仏は須菩提に告げたもう、「意においていかに。如来は昔然燈仏(ねんとうぶつ)の所に
在し、法において得る所有りしや、いなや。」「いななり、世尊。如来は然燈仏の所に在
りて、法において実には得る所なし。」「須菩提よ、意においていかに。菩薩は仏土を莊
厳するや、いなや。」「いななり、世尊。何を以っての故に。仏土を莊厳するとは、すな
わち莊厳するに非ざればなり。これを莊厳と名づくるなり。」「是れ故に、須菩提よ、諸
菩薩摩訶薩はまさにかくの如く清浄な心を生ずべし。まさに色に住して心を生ずべからず。
まさに声香味触法に住して心を生ずべからず。まさに住する所無くして、しかも其の心を
生ずべし。須菩提よ、譬えば人有りて、身は須弥山王の如しとせんに、意においていかに。
是の身は大と為すや、いなや。」須菩提言わく、「甚だ大なり、世尊よ。何を以ての故に。
仏は『非身を是れ大身と名づく』と説きたまわればなり。」

仏が『金剛経』で説かれた教えは、一貫して途切れることなく、段階を追って進んでい
きます。それは弟子たちの迷いや執着を打ち破り、悟りや成道への障害を取り除くための
ものです。現在、私たちがこの教えを「品」に分けて学ぶのは、説法しやすく、覚えやす
くするためです。ですから、理解するときは、それぞれの品を学ぶごとに、仏がそれまで
に何を説かれたかを知っておくことが大切です。

振り返ってみると、今回の仏の説法は、須菩提の質問がきっかけでした。。その問いと
は、「無上正等覚を求めて発心したばかりの者は、いかにして心を安住させ、いかにして
煩悩や障礙を調伏できるか」というものでした。仏は説法を通して、弟子たちに修行の方
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法を示しただけでなく、あらゆる煩悩や心の不安の原因を、段階を追って明らかにしてく
れました。

第一・第二品では、この経典が説かれるに至った縁起と、その時間と場所が記されてい
ます。第三・第四・第五品では、仏は弟子たちに対し、修行において相に執着せずに発願
し、相に住することなく一切を布施し、さらに身相に捉われずに本性(仏性)を見るべき
だと説かれました。続く第六・第七・第八・第九品では、仏はさらに、弟子たちが抱いて
いた仏果・仏法・四果阿羅漢などへの執着と誤った認識を打ち破りました。そして、悟り
には得るべき固定的な「法」はなく、仏性に帰るためには分別と執着を手放せばよいこと
を明らかにされました。仏の開示は、あくまで彼岸へと導く羅針盤であり、理解するため
の方便にすぎません。つまり、教えを聞いたら、その通りに実践すればいいのです。一切
の名相に執着する必要はないのです。

では、第十品で仏が打ち破ろうとしているのは、弟子たちのどのような「相」への執着
でしょうか。続きを聞いていきましょう。

仏陀は須菩提にこう問われました。「須菩提よ、どう思いますか。如来がかつて燃灯仏
の御許におられた時、何らかの法を得たのでしょうか。」須菩提は答えて言いました。「世
尊、私の理解するところでは、如来は燃灯仏の御許では、何らの法も得られませんでした。」

この一節で、仏は弟子たちにこう教えています。「今、私、釈迦牟尼仏が皆さんを導い
ているこの方法は、決して新しいものではありません。かつて私が師である燃灯仏の御許
にいた時も、何らの法も得ませんでした。ただ、すべての執着と分別を捨て去っただけな
のです。」この教えは、仏が先に「一切賢聖は、皆無為法を以って差別あり」と説かれた
こととも、よく響き合っています。

次に、仏は須菩提に問いかけられました。「須菩提よ、どう思いますか。菩薩が一切の
善行を修めることは、本当に仏国土を荘厳することになるのか。」ここで「仏土を荘厳す
る」ことには、主に二つの意味があります。一つ目は、外に向かって行う荘厳です。例え
ば、寺院を建てたり、塔を造ったり、経典を写したり、布施や供養をしたり、広く善行を
積むことなどです。二つ目は、自分の心を清める荘厳です。すなわち「自心の仏土を荘厳
する」ことで、具体的には仏法を修行し、心を落ち着けて放逸せず、仏の正しい知見に心
を安住させて菩薩道を実践することです。例えば、皆さんが以前に学ばれた『法華経』に
登場する常不軽菩薩は、すべての人に敬意を払い礼をしました。彼は一切の衆生を敬い、
その敬虔な心で見るものすべてを荘厳しました。これも自心の仏土を荘厳する実践です。
仏の般若智慧(はんにゃちえ)の見地から言えば、衆生は一切の相を離れて、仏土を荘厳
する善行や功徳を観るべきです。そうすることで速やかに空性に契入(けいにゅう、自分
の心を真理に一体化させること)できるのです。なぜなら、万法の本性は如来そのもので
す。如来は本来、生まれもせず滅びもせず(不生不滅)、汚れも清らかもなく(不垢不浄)、
すべてが円満にそろっています。それならば、いったい何を荘厳する必要があるでしょう
か。


そこで仏は須菩提に問われました。「須菩提よ、菩薩は本当に仏土を荘厳していると言
えるのでしょうか。」須菩提は答えて言いました。「いいえ、世尊。そのようなことはあ
りません。菩薩は広く善行や法門を修め、仏土を荘厳します。しかし、その心は自性の空、
無所作(むしょさ、行いをしながらも、行っているという執着がないこと)・無所得(む
しょとく、得るものがないこと) の境地に安住しています。ですから、『仏土を荘厳す
る』という事柄そのものには執着しません。これはあくまで世俗に従った仮の名前であり、
『仏土を荘厳する』と名付けているだけなのです。」

仏は須菩提に説かれました。「須菩提よ、この道理によって、すべての菩薩摩訶薩(ぼ
さつまかさつ、大菩薩) は、一切の行いにおいて、このように清浄な心を起こすべきで
す。すなわち、色・声・香・味・触・法に住して心を生じてはなりません。住する所なく
してその心を生ずる(應無所住而生其心)のです。」

ここで仏は、「我らは住する所無くして、しかも其の心を生ずべし」と説かれました。
では、「住する所ありて心を生ずる」とはどういうことでしょうか。衆生の心には「我」
という執着があります。これを六根(ろっこん)と呼びます。それに向かい合う外の世界
を六塵(ろくじん)と呼びます。この外の境に触れて、さまざまな妄念(もうねん)や雑
念が生じます。そして、その妄想心(もうそうしん、迷いの心)の中で悩み、苦しみ、生
まれては消える輪廻を繰り返します。この妄想心こそが、「住する所ありて心を生ずる」
状態なのです。一方、菩薩は本心に安住し、如如不動(にょにょふどう)であり、相を取
らず、外の境に動かされません。心は常に清浄です。彼らは、心そのものが本来、空であ
り、明らかで寂静であることをはっきりと納得しています。縁にしたがって、その時にふ
さわしく対応しながらも、過ぎ去ったことは一切執着しません。これこそが「住する所無
くして、しかも其の心を生ずる」ということなのです。

さらに仏は須菩提に問われました。「須菩提よ、例えば、ある人の身体が須弥山のよう
に大きくて立派だとしましょう。どう思いますか。その身体は大きいと言えるでしょう
か。」須菩提は答えました。「本当に大きいです、世尊。なぜなら、仏が説かれる『大身』
は、すなわち大身に非ず、是を以て大身と名づくからです。この『大身』は、無数の善行
と功徳が集まってできたものです。そこには固定した実体はありません。ただ世間の仮の
名前として『大身』と呼んでいるだけなのです。」

ここで仏は「大身」の譬えを説かれました。菩薩が菩薩道を実践し、功徳が円満になる
と、この世に円満な身相を現すことがあります。例えば、三十二相八十随形好(さんじゅ
うにそうはちじゅうずいぎょうこう)、あるいは禅定の中で須弥山(しゅみせん、仏教で
この世界で最も高いとされる山)のように巨大な身体として現れるのです。仏はこの功徳
円満の身を譬えとして、須菩提に問われました。「その身体は大きいと言えるでしょうか。」
須菩提は答えました。「本当に大きいです、世尊。」しかし、たとえこれほど大きな身体
であっても、その本質は無数の善行と福徳という諸縁(しょえん)が集まってできたもの
にすぎません。世俗の仮名として「大身」と呼んでいるだけで、その本体は空しく実体が
ないのです。

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