第十四品 離相寂滅分(だいじゅうよんほん りそうじゃくめつぶん)、第十五品 持経功徳分(だいじゅうごほん じきょうくどくぶん)、第十六品 能浄業障分(だいじゅうろっぽん のうじょうごうしょうぶん)

その時、須菩提は、この経を説きたまふを聞きて、深く義趣を解し、涕涙悲泣して、仏
に白(もう)して言わく、「希有なり、世尊よ。仏は是く如き甚深の経典を説きたもう。我
れ昔よりこのかた得たる所の慧眼をもて、未だ曾(かつ)てかくの如きの経を聞くことを得
ざり。世尊よ、もし復た人有りて、この経を聞くことを得て、信心清浄ならば、すなわち
実相を生ぜん。まさに知るべし、この人は第一希有の功徳を成就せんことを。世尊よ、是
れ実相とは、すなわち是れ非相なればなり。これ故に如来は説いて実相と名づけたもう。
世尊よ、我れ今、かくの如き経典を聞くことを得て、信解し受持するを難しと為すに足ら
ず。もし、まさに来るべき世の後の五百歳に、その衆生有りて、この経を聞くことを得て、
信解し受持することあれば、この人をこそすなわち第一の希有と為すなり。

何を以ての故に、この人は、我相も、人相も、衆生相も、寿者相も無ければなり。所以
(ゆえん)はいかに、我相はすなわち是れ相に非ず、人相、衆生相、寿者相もすなわち是れ
相に非ざればなり。何を以ての故に、一切の諸相を離れたるをすなわち諸仏と名づくれば
なり。」仏は須菩提に告げたもう、「かくの如し、かくの如し。もし復た人有り、この経
を聞くことを得て、驚かず、怖れず、畏(おそ)れざれば、まさに知るべし。この人は甚だ
希有と為す。何を以ての故に。須菩提よ、如来は説きたまえり第一波羅蜜は、すなわち第
一波羅蜜に非ずと。これを第一波羅蜜名づくるなり。須菩提よ、忍辱波羅蜜を如來は説き
たもう。忍辱波羅蜜に非ずと。これを忍辱波羅蜜と名づくるなり。何を以ての故に。須菩
提よ、我れ昔、歌利王の為に身体を割截せらたるときの如し。我れその時において、我相
も無く、人相も無く、衆生相も無く、無寿者相も無かりき。何を以ての故に。

我れ往昔節節(ふしぶし)を支解されし時に、もし我相、人相、衆生相、寿者相あらば、
まさに瞋恨を生ずべかりしならん。須菩提よ、また念(おも)う、過去五百世に忍辱仙人と
して在りしことを。そのすべての世に於いて、我相、人相、衆生相、寿者相なかりき。是
の故に須菩提よ、菩薩は一切の相を離れて、阿耨多羅三藐三菩提心を発すべし。まさに色
に住して心を生ずべからず、まさに声香味触法に住して心を生ずべからず。まさに住する
所無き心を生ずべし。もし心に住する所あれば、すなわち住するところに非ずと為す。是
の故に仏は『菩薩の心は色に住して布施すべからず』と説きたまわればなり。須菩提よ、
菩薩は一切衆生を利益せんが故に、かくの如く布施すべし。如来は『一切の諸相はすなわ
ちこれ非相なり』と説きたまわればなり。また、『一切衆生はすなわちこれ衆生に非ず』
と説きたまわればなり。須菩提よ、如来は真語者、実語者、如語者、不誑語者、不異語者
なり。須菩提よ、如来の得たまう所の法は、この法は実無く虚無し。須菩提よ、もし菩薩
の心、法に住して布施を行わば、人の暗きに入るが如く、すなわち見る所あること無し。
もし菩薩の心、法に住せずして布施を行わば、人の目有りて、日の光明の照らすに、種々
の色を見るが如し。須菩提よ、来るべき世に、善男子・善女人ありて、この経を受持し読
誦せば、如来は仏の智慧をもって、悉くこの人を知り、悉くこの人を見たまう。皆、無量
無辺の功徳を成就することを得ん。」

この三品の大意は、須菩提が仏の説法をここまで聞いて、ついにその深い意味を悟り、
喜びの涙を流して、仏陀にこう申し上げたというものです。「世にも希有な世尊よ、この
ような深遠な経典をお説きくださるとは。私はこれまで長く苦しい修行を重ね、真偽を見
分ける慧眼(えげん)は得ておりましたが、このような経典を聞いたことは、一度もあり
ませんでした。」

世尊よ、もし人が幸いにもこの経を聞き、その教えを深く信じて疑わず、心が清らかで
あるならば、生滅するさまざまな相に迷わされることはありません。すると、宇宙の全て
のものの実相(真実の姿)が、自然とその人に現れてくるでしょう。このような人こそ、
世の中で第一に希有な功徳を成就する者です。世尊、私がここで「実相」と言うのは、宇
宙の全ての事象に、不変の真実の形があるという意味ではありません。それはあくまで仮
に付けた名前に過ぎないのです。衆生が仮りの相に惑わされず、この悟りの境地に至るこ
とを、「実相を見る」と呼ぶのです。

世尊、私は今、この経典を聞き、深く信解(しんげ、信じて理解すること) し、実践
することは難しくありません。しかし、未来の末法の世、最後の五百年において、もし衆
生がこの経を聞いて信解受持(しんげじゅじ、信じて理解し、心に受け止めて守ること)
することができたならば、その人はまことに得難い存在です。人中でも稀有な者です。な
ぜそう言うのでしょうか。その人には、すでに我相・人相・衆生相・寿者相という分別の
相がなくなっているからです。一般の衆生が執着するそれらの相は、すべて虚妄であり、
実体のないものです。したがって、一切の相を離れた者、それがすなわち仏であると説か
れるのです。

ここで須菩提は心から感嘆し、こう述べています。未来、仏が入滅(にゅうめつ、仏が
この世での教えを終え、涅槃に入ること) された後でも、もし人が自我・他人・衆生・
寿者といったあらゆる相に迷わされなかったとします。その人がこの経典を信受奉行(し
んじゅぶぎょう、信じて受け入れ、その通りに実践すること)できるなら、その人はまこ
とに希有(けう、めったにない。非常に珍しい)で得難い存在です。確かにその通りです。
今日、多くの人々は仏法を学び、無上正等正覚を求めて発心しますが、空性の正しい知見
に安住して実践することができません。求める心や得ようとする執着が強すぎます。その
ため、自我・他人・衆生に対して区別や執着、取捨選択を繰り返しています。その発心は
大きいにもかかわらず、実践は小法(しょうほう、わずかな清らかさや世間の利益を求め
る小さな教え)に安住する者と言えます。ただ一時的な心の清らかさや満足を求めるだけ
です。あるいはこの世の福利、長寿や不老、様々な神通力を求めるだけにとどまっていま
す。もし人が「一切の法は本来、生じることがない(無生、むしょう)」と悟るなら、そ
れをわざわざ滅ぼすことも否定することも必要ありません。だからこそ、そのような人は
相の中にあってもその相に執着しないことができます。それゆえに仏と称されるのです。

仏は須菩提にはっきりと言われました。「そのとおりです。もし、このような言葉を聞
いて、驚きも恐れもせず、『これは深すぎて理解できない』とも思わない人がいるなら、
その人は実に最も得難く、希有な存在です。須菩提よ、如来が説く『第一の法』とは、あ
らゆる執着を打ち破り、衆生を輪廻の此岸から解脱の彼岸へと導くものです。しかし、真
に実体としての『第一の法』があるわけではありません。あくまで理解を助けるための方
便として、仮にそう名づけているだけなのです。」

以上の対話の冒頭では、須菩提が自らの悟りについて語っています。彼は、もし人が仏
のこのような説法を聞くことができれば、悟りを開き、仏となることができると考えたの
です。須菩提は仏の十大弟子の一人であり、「解空第一(げくうだいいち)」と称され
る、欲望を離れた大阿羅漢です。つまり、身心の内外の一切の欲望や境界に心を動かされ
ることなく、人空(にんくう、自分の「私」という実体がないと見抜くこと)・法空(ほ
うくう、あらゆる法に実体がないと見抜くこと) の道理もすでに聞いて理解していたは
ずです。それでも彼がここで歓喜の涙を流したのは、仏がこのような角度から空性(くう
しょう) を説かれたことを、かつて聞いたことがなかったからです。須菩提は、発心し
たばかりの善男子・善女人に代わって質問をしていました。彼は、仏が当時このように説
法されたのは、法を聞く弟子たちの心性に深く響き、彼らを大悟へと導くためであったと
理解したのです。しかし、時代は移り変わりました。今日、私たちがこのような仏の説法
を聞いても、一方では文章が古典であるため理解が難しく、他方では禅定の基礎がないた
め、仏の教えを完全に理解するのは困難です。ここで須菩提は、再び慈悲をもって「仏滅
後五百年(ぶつめつごごひゃくねん)」の衆生について言及します。この「後五百年」がど
の時期を指すかについては、仏教史上に諸説あります。私は個人的に、それを末法(まっ
ぽう) 時期の最後の五百年と理解しており、それはまさに私たちの時代を指していると
さえ思います。また、これを仏が入滅されてすぐ後の五百年間と解する説もありますが、
いずれにせよ、それは仏が入滅された後の時代のことです。

さて、なぜ須菩提がこう言ったのでしょうか。彼はこう考えました。仏がいらっしゃっ
た時代には、たとえ人々が「空」の道理を理解できなくても、信心が持てなくても、仏の
教えに疑問があっても、すぐに仏のところへ行って直接質問することができました。する
と仏は、その人の根機(衆生の修行と悟りの素質)に合わせて教えを説き、疑問を解いて
くださいました。しかし、仏滅後五百年、すなわち末法の時代になると、仏はいらっしゃ
いません。長い時間が経ちました。衆生は、ただ経典の文字や言葉だけを見ることになり
ます。もし心に迷いや疑問が生じても、それを解決してくれる師を見つけるのは難しいで
しょう。だからこそ、須菩提は何度も末法の時代の衆生を心配しました。これも菩薩とし
ての慈悲の心からです。そして、彼は仏の教えが永遠にすべての衆生の役に立つことを願
ったのです。

ここで須菩提はこう言います。「仏滅後五百年(ぶつめつごごひゃくねん)、もしこの
経を信解受持(しんげじゅじ)できる人がいるなら、その人は世の中で最も希有です。」
これに対して仏は、次のように補われました。「さらに、この経を聞いて驚かず、怖がら
ず、『奥深くて実践しにくい』と思わない人がいるなら、その人は本当に最も希有です。」
この説法を聞くと、こう思うかもしれません。今日、多くの人が『金剛経』を読んでも、
実際に驚いたり怖がったり、畏れを感じたりする人はほとんどいない、と。その理由は、
本当に理解している人が少なく、信じて受け入れて実践する人もほとんどいないからです。
だからみんなが「不驚・不怖・不畏(おどろかず、こわがらず、おそれない)」という状
態になっているのです。

もし本当に仏の教えを理解し、すべての「相」への執着を離れて迷いの夢から覚めるな
らば、それはちょうど長い悪夢から目覚めた人のようです。その瞬間、冷や汗が出るほど
驚くでしょう。なぜなら、自分がこれまでこの世の名誉や利益、愛情や欲望に執着し、そ
れらの得失にこだわりながら、飽くことなく追い求めてきたからです。また、名誉や利益、
愛情を通して自分を表現し、自分の価値を認められようとし、それらの「成功」をひたす
ら求めてきたからです。私たちは、人間の三次元的な視点に縛られた、眼・耳・鼻・舌・
身・意という狭い認識で世界を見つめながら、それでいて生命の永遠と完全な満足を渇望
してきました。自分はこの世界の、確かめることもはっきり見ることもできないさまざま
な相にいつまでもとらわれ、生まれ変わりを繰り返してきました。さらに、貪・瞋・癡・
慢・疑によって、ついには三悪道(さんあくどう) に堕ちるような業(ごう) さえ積ん
できました。これらすべては、ただ仏のような完全な認識と智慧を持っていなかったから
にほかならないのです。

もし私たちが本当に仏の説かれる円覚(えんがく)の境地や、円満な覚りの智慧(えん
まんなさとりのちえ) を理解し、迷いの夢から一瞬で覚めたなら、自分が少しの間違い
で三悪道(さんあくどう) に堕ちるところだったと気づくでしょう。そう思うと、背筋
に寒気が走り、額に冷や汗が出るほどです。また、たまたま人間の世界に生まれている大
菩薩でさえ、仏の説法を聞いて覚(さと)った時、自分の無明(むみょう、ものごとの本
当の姿が見えない心の闇。煩悩の根本) の深さに驚き、怖れを感じます。さらに、声聞
乗(しょうもんじょう) の弟子たちについて考えてみましょう。彼らは長い間、仏に従
って教えを聞き、心に刻み、戒律を守り修行してきました。しかし、次のような教えを聞
かされました。「万法(あらゆる法)は空で、あらゆる文字や言葉、経典の章句は仮の名
前にすぎません。あらゆる相に執着しなくなることが、すなわち仏です。」彼らはこの教
えを聞いて、すぐにその真意を悟ることができなければ、心に驚きと恐怖が生じます。こ
のため、仏はこう言われました。「もし人がこの経の言葉や章句を聞いて、驚かず、怖が
らず、畏れない(おそれない) なら、それは甚だ希有(はなはだけう) です。」仏が「甚
だ希有」と言われるのは、あらゆる相に執着しなくなった大菩薩のことであって、まだ本
当に理解していない衆生のことではないのです

そこで如来はさらに続けて説かれました。「須菩提よ、如来が説く『第一波羅蜜』とい
うものは、実体としての『第一波羅蜜』があるわけではありません。ただ、仮に『第一波
羅蜜』と名づけているにすぎません。『忍辱波羅蜜』についても同じです。実体としての
『忍辱波羅蜜』があるわけではなく、仮に『忍辱波羅蜜』と名づけているにすぎません。」
如来がこのように重ねて説かれたのは、弟子たちが「法」という名相そのものに執着する
のを懸念してのことです。如来は先に、「諸相はすべて虚妄である」という道理を説かれ
ました。この道理は、もし衆生が悟ることができれば、輪廻からの解脱に至る最上の方法
です。そして、あらゆる修行法の中で第一とされるものです。しかし弟子たちは、「真に
『第一』という名に値する固定された法がある」と思い込んではなりません。この智慧を
悟ったなら、ただちにそれさえも捨て去り、自らの執着を破らなければなりません。そし
て、如来の知見の中に安住するのが正しいのです。したがって、「第一波羅蜜」とは、実
在する第一の修行法という意味ではありません。それは、衆生と教えを伝え合うための方
便として、仮に設けられた名前にすぎません。その意味で、「仮に『第一波羅蜜』と名づ
ける」と言われているのです。

菩薩道において、大乗菩薩が修行する「六波羅蜜多(ろくはらみつ)」、すなわち「六
度(ろくど)」とは、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょう
じん)・禅定(ぜんじょう)・般若(はんにゃ) を指します。それぞれの修行の真の目
的は、人空(にんくう、自分の「私」という実体がない)・法空(ほうくう、あらゆる法
に実体がない) を悟ることです。例えば、忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ) について考
えてみましょう。自分の自尊心や体面を深く傷つけるような出来事があったとします。一
般の凡夫は、これに遭うと懊悩し、怒りや復讐の心を起こしがちです。しかし、大乗菩薩
は「一切が畢竟空(ひっきょうくう) である」という正しい知見に安住し、静かにその
状況を受け止め、転化させます。これが忍辱行です。修行の初期には、「すべては虚妄で
ある」と理解していても、心や体の反応はまだ強く現れます。それでも、仏の正しい知見
を守り、不平を言わず、怒らず、内外の出来事に心を動かされないなら、それは忍辱波羅
蜜と呼ばれます。つまり、忍辱の修行を通じて、あらゆる「相」の虚妄性を確かめ、心と
体の束縛から解き放たれ、輪廻から解脱することを意味しているのです。

行者の功徳が次第に円満になるにつれて、その行いはもはや「忍辱」とは呼ばれなくな
ります。なぜなら、仏法の根本である智慧の境地では、行者も、対境となる他者も、忍ぶ
べき事象そのものも、すべて因縁によって仮に現れた一つの相に過ぎないからです。そこ
には実体も固定的な意味も存在しません。もし行者がここに「是か非か」「正しいか誤り
か」といった分別の判断を下し、それに執着し続けるなら、その人は人道という境涯に囚
われることになります。そうなれば、万事万物の仮相の中から解脱することができないで
しょう。

仏はこう説かれました。「忍辱波羅蜜は、忍辱波羅蜜に非ず、是を忍辱波羅蜜と名づく
るなり。」これは、弟子たちが六波羅蜜を修行するとき持つべき正しい知見です。仏は弟
子たちのためにこの法門を設けられました。弟子たちは、忍辱行を修めているように見え
ますが、如来の円満な境地には、「侮辱」というものは存在しません。弟子たちに「我相」
や「他相」があるからこそ、「侮辱」が生まれ、それゆえに「忍ぶ」という行為が必要に
なるのです。また、弟子たちは「法相」に執着してはいけません。「忍辱を修めれば功徳
が得られる」という求める心で忍んではならないのです。真の功徳とは、この修行を通し
て心が真空の境地に安住し、どんな状況にも動かされなくなることです。そして、「忍ぶ
べきもの」は何もないと心で覚ることです。そのとき初めて、行者はあらゆる相から解脱
し、すべての相が虚妄であると悟るのです。だからこそ、仏は「忍辱波羅蜜」とは単なる
名前であり、その本質には実体がないと説かれたのです。

この説法に続いて、仏はご自身の過去の修行の話をしてくださいました。

昔、ある世のことです。仏(まだ修行者だったお釈迦様)は、山奥の静かな場所で一人
で修行していました。当時、歌利王という王様がいました。ある日、王様は妃や家来たち
を連れて森で狩りを楽しんでいました。すると、数人の妃が、木の下で静かに座っている
修行者を見つけました。妃たちは深く敬いの気持ちを抱き、その周りに集まって、ほめた
たえ、礼をし、教えを求めました。妃たちのその様子を見て、かり王の心には激しい嫉妬
と恨みが生まれました。王は、この修行者が「忍辱行」をしていると聞くと、剣を抜き、
妃たちの目の前で、その修行者の両手、両足、耳や鼻などを次々と切り落としました。修
行者は少しも動かず、静かな表情を保っていました。それを見て王は切りながら言いまし
た。「これでもまだ心は動かず、怒りも起こさないというのか。」その時、まだ修行が完
成していなかった修行者は、王に向かってこう言いました。「もし私が本当に、あなたに
対して一瞬の怒りも抱かなかったなら、この切り離された体は元通りになるでしょう。」
その言葉が終わるか終わらないうちに、体はすっかり元通りに治ったのです。

これは、仏が遠い過去世に忍辱行を修めたお話です。この話は、いくつかの仏典に登場
します。『賢愚経』によると、話の最後に、歌利王は仏の教えに心を動かされ、心から反
省しました。その時、まだ仙人だった仏は、こう言いました。「あなたは女の色に迷い、
刀で私の体を切り刻みました。しかし私は大地のように耐え忍びました。私が将来、仏に
なったなら、まず智慧の刀であなたの三毒(貪・瞋・痴)を断ち切りましょう。」また、
別の経典にはこう書かれています。後に世尊が仏になったとき、最初に救われたのがこの
歌利王でした。彼こそが、のちの憍陳如尊者(きょうちんにょそんじゃ)であると。

仏はさらに次のように説かれました。「私は過去世において、五百世にわたり忍辱波
羅蜜を修めて、忍辱仙人(にんにくせんにん)となりました。そのとき常に『無我相・無
人相・無衆生相・無寿者相』という正しい知見を保ち続けました。ですから、忍辱波羅蜜
を円満することができたのです。」

この話を聞いて、私たちは何を感じるでしょうか。中には、「仏陀は神通力があったか
ら、体を切り裂かれてもすぐに戻せた。そんな境地は普通の人間には無理だ。自分にはで
きないから、忍辱行は成就できないのだろうか」と思う人もいるかもしれません。しかし、
そうではありません。仏陀がこの話をしたのは、私たちに無理な苦行をしなさいと言って
いるのではありません。「無相の忍辱」、つまり、どんな相にも執着せずに耐え忍ぶ心を
持てば、忍辱行は成就すると教えているのです。

普段、私たちも「忍辱波羅蜜」を修行しようとします。しかし、実際には腹を立てたり、
不満や怒りを感じたり、つらく思ったり、相手に失望したり、絶望したりすることが多い
でしょう。それは、まだ自分自身の感覚(自我)に執着し、他人の言動の善悪に心を奪わ
れているからです。そのような状態では、仏の正しい知見に基づいた修行とは言えません。
ただ辱めを受けているだけで、やがて我慢できなくなるでしょう。一方、仏が忍辱仙人だ
った時は、五百世もの長い間、心も体も落ち着き、内外のあらゆる出来事に動かされませ
んでした。そこには「我」「人」「衆生」「寿者」といった区別もなく、生まれたり消え
たりする姿にもとらわれませんでした。これこそが、本当の「忍辱波羅蜜」なのです。

この物語には、もう一つの見方があります。もし私たちが人間の世界に生きながら、性
空の理(しょうくうのり) を悟らず、いろいろな「相」にこだわり、いろいろな出来事
に心を動かされ続けるなら、どうなるでしょうか。そのとき、自分の貪・瞋・癡・慢・疑、
そして名利や愛情への執着、さまざまな欲望は、まさに歌利王とその手に持つ剣のような
ものです。遅かれ早かれ、私たち一人ひとりの心と体は切り刻まれ、ボロボロになってし
まうでしょう。私たちは三界六道という幻の世界に閉じ込められています。まだ本当の
解脱を得ていません。進むべき道も、退く道も見えません。気づかないうちに、まるで回
り続けるコマのように、ただ輪廻を繰り返しているだけです。しかし、仏の般若智慧(は
んにゃちえ) は、私たちがこの幻の世界の中で足を止めることを可能にします。そして、
心と体の内外に現れるすべての「相」が、虚妄で実体のないものであると、はっきりと見
極めることができるようにしてくれます。そのとき、私たちの内に、円満な自性如来が現
れます。それは増えることも減ることもなく(不増不減)、汚れることも清まることもあ
りません(不垢不浄)。どれほど長い時間が経っても、果てしない輪廻も、それを少しも
傷つけることはできません。ちょうど、忍辱仙人の身体が瞬時に元に戻ったように、歌利
王がどんなにひどいことをしても、その本質を傷つけることはできませんでした。同じよ
うに、三界六道の幻影も、私たちが本来持っている円満な真空の自性を、けがすことも傷
つけることもできないのです。

この物語は、経典の中で仏がほんの一言で語っただけです。しかし、私たちが今、仏の
智慧を聞くことができるのは、仏が遠い昔、無量劫(むりょうこう、無数の長い時間) を
かけて、とても難しい修行を積み重ねて得た宝物を、惜しみなく、そして私たちに合った
上手な方法で伝えてくださったからです。仏の正しい教えを聞く私たち一人ひとりは、す
でに仏の大きな布施を受けています。もし仏という導き手がいなければ、私たちは生命の
帰るべき道に迷い、あらゆる「相」にこだわり、幾重にも重なる境界に惑わされ続けるで
しょう。

さらに別の見方をしてみましょう。仏陀は五百世もの長い間、ひたすら忍辱波羅蜜を修
行し、過酷な苦行さえも耐え忍びました。それに対して私たちは、日常生活でちょっとし
た試練にぶつかっただけで、心が折れたり、失望したり、冷たくなったりすることがよく
あります。そして、衆生や仏の教えへの信頼を失い、道心(悟りを求めようとする心)ま
でなくしてしまうことも少なくありません。本当に悟りを目指す人なら、この話を聞いて、
自分自身をよく振り返ってみるべきでしょう。

もちろん、仏が過去世の修行の話をされたのは、決してご自身を誇るためではありませ
ん。「私がどれほど優れていたか」と示すためでもなく、「私は無量の苦行を経てこの境
地を得た。それを惜しみなくお前たちに伝えているのだから、感謝すべきだ」と言おうと
しているのでもありません。もし仏にそのような一念があれば、それはすでに「我・人・
衆生・寿者」という四相に執着していることになり、もはや仏とは呼べません。仏がこう
した例を挙げられた真の目的は、「私もこのような見地によって修行を成就した。あなた
がたも、この生きた手本を見て、修行への信心を強く持ちなさい」と弟子たちに教えるた
めなのです。

仏はさらにこう仰いました。「是の故に須菩提よ、菩薩は一切の相を離れて、阿耨多羅
三藐三菩提心を発すべし。まさに色声香味触法に住して心を生ずべからず。まさに住する
所無き心を生ずべし。もし心に住する所あれば、すなわち住するところに非ずと為す。」

この一節は、次のような意味です。『金剛経』の冒頭では、須菩提が仏にこう尋ねまし
た。「善男子・善女人が、無上正等正覚を求める菩提心を起こすとき、どのように心を安
住させ、どうすれば妄念(もうねん、迷いの雑念)と煩悩を調伏(静めて従わせること)
できるでしょうか。」ここで仏は、その問いの答えに立ち返っておられます。仏はこう説
かれました。「衆生は一切の相を離れ(執着しなくなり)、無上正等正覚を求める心を起
こさなければなりません。そうしてこそ、法を求める道の上で心を安住させ、煩悩なく歩
むことができるのです。」もし六根(ろっこん) や六塵(ろくじん) の境界に執着した
まま、無上正等正覚を求めようとしても、如来の真空の境地に帰ることはできません。な
ぜなら、相に執着する限り、煩悩と苦しみは絶え間なく続くからです。だからこそ、衆生
が無上正等正覚の果位を求めようと発心するその瞬間から、すべての相を離れなければな
りません。つまり、修行の中で如如不動(にょにょふどう) で、心や体の内側・外側の
出来事に動かされてはいけないのです。知見においては、常に「一切の相は虚妄で、実体
がない」という正しい知見を保ちなさい。そして、求める心もなく、得ようとする心もな
く、来ることも去ることもありません。そのように発心してこそ、如来の真空に帰ること
ができるのです。このような正しい知見に基づいて心を起こせば、心を安住させ、煩悩や
妄念を調伏させることができます。反対に、無上正等正覚という円満な覚(さと)りや仏
果を成就しようと発心しながら、この世のいろいろな相や人間関係に心を引きずられ、さ
まざまな執着や損得にこだわり、「得るべき法がある」と考えてしまうなら、そのような
発心は正しい知見とは言えません。それは大菩薩が体や心を安住させるべき境地ではない
のです。さらに、すべての相はその本質が虚妄です。たとえ心がどこかに住し(執着し)
ていたとしても、それは虚妄の基盤の上に仮に住しているにすぎません。そうでは、実相
を見ることも、仏果を成就することもできないのです。

仏はさらにこう説かれました。「以上の理由で、私は『菩薩の心は色に住して布施すべ
からず』と説いたのです。」仏はすでに第四品で、次のように述べられています。菩薩は
何ものにも住することなく布施を行ってこそ、円満な仏道を成就できる、と。ここで再び
「不住相布施(相に住することなく布施すべし)」を説かれるのは、まさにその意味です。
原文に「是故仏説(是の故に仏は説きたまわればなり)」とある通り、これはすでに前に
説かれた内容を示しています。大乗菩薩道では、布施は第一の修行です。仏教史上、大菩
薩たちは数多くの人生をかけて、法のために、また衆生のために、自分のすべてを惜しみ
なく布施してきました。時には、頭や脳、骨髄、さらには体や命さえも布施したのです。
しかし、ここで仏が強調されるのは、菩薩が布施をするときに、必ず仏の般若の智慧をし
っかり守らなければならないということです。布施においては、常に空性を観じなければ
なりません。つまり、「自分」も空であり、施すものも空であり、受け取る人も空であり、
衆生も空であると、はっきりと見抜くことです。そうでなければ、どんな布施もただの世
間の善行にすぎません。そうなると、菩薩の行いも、法や衆生のためのただの犠牲や苦労
になってしまいます。仏は経文の中でこう明言されています。「須菩提,菩薩為利益一切
眾生,應如是布施。如來說一切諸相即是非相,又說一切眾生即非眾生(須菩提よ、菩薩は
一切衆生を利益せんが故に、かくの如く布施すべし。如来は『一切の諸相はすなわちこれ
非相なり』と説きたまわればなり。また、『一切衆生はすなわちこれ衆生に非ず』と説き
たまわればなり)。」

仏は、弟子たちの信頼を深め、その教えが真実であることを心に刻ませるため、慈しみ
を込めて丁寧に次のように説かれました。「如来は真語者、実語者、如語者、不誑語者、
不異語者(真実を語り、嘘がなく、あるがままを語り、決して人を欺かず、言葉に矛盾の
ない方)なのです。」これは、まだ疑いを持っている衆生に対して、「如来は決して騙さ
ない。だから疑わなくてよい」と伝えるためです。如来は、万法の実相を正しく語ること
ができる方です。万物の本来の姿を知っている方です。如来は決して嘘をつかず、人を欺
きません。如来はすでに生命の真実の究極に到達しています。その説かれる教えは、すべ
ての人を同じ目的地へと導きます。教えの内容が互いに矛盾して、人によって到達する場
所が違うということは決してありません。

さて、続けて仏は説かれます。「如來所得法,此法無實無虛(如来の得たまう所の法は、
この法は実無く虚無し)。」これまでにも、仏と須菩提の間で「法」について何度か問答
がありました。第七品では、仏が須菩提に「如来は何か法を説いたのか」と尋ねました。
第十品では、「如来が昔、燃燈仏のもとにいたとき、何か法を得たのか」と尋ねました。
須菩提は「如来は燃燈仏のもとで、何も得てはいません」と答えました。これらの問答か
ら、私たちは次のことを理解すべきです。仏法は、迷っている衆生のための良い薬です。
衆生は、仏の正しい知見なしには、迷いから悟りへと転じたり、夢から完全に覚めたりす
ることができません。その意味では、仏法は真実で、確かなものです。衆生がよりどころ
とすべきものです。しかし、一度夢から覚めてしまえば、それまで修行してきたすべての
法門や解脱の道も、夢の中の出来事と同じく、虚妄で実体のないものになります。仏は、
弟子たちが「一切の相は虚妄である」と聞いて、「ならば仏法も虚妄だから、戒律を守っ
たり修行したりする必要はない」と誤解することを心配されました。そこでここで、「如
來所得法,此法無實無虛(如来の得たまう所の法は、この法は実無く虚無し)」と改めて
説かれたのです。つまり、この法は、固定的な実体として執着すべきものではありません。
しかし、単なる無意味なものとして否定することもできません。衆生が迷っている間は、
それは確かなよりどころであり、解脱へと導く灯りなのです。

続いて、仏は布施の修行について一つの喩えを示されました。原文では次のように述べ
ています。「須菩提,菩薩心住於法而行布施,如人入闇,即無所見。菩薩心不住法而行布
施,如人有目,日光明照,見種種色(須菩提よ、もし菩薩の心、法に住して布施を行わば、
人の暗きに入るが如く、すなわち見る所あること無し。もし菩薩の心、法に住せずして布
施を行わば、人の目有りて、日の光明の照らすに、種々の色を見るが如し)。」(意味:
須菩提よ、もし菩薩の心が法に執着して布施を行うなら、それはあたかも人が暗闇の中に
入るようなもので、何も見えなくなります。しかし、もし菩薩の心が法に執着せずに布施
を行うなら、それは目の見える人が日ざしの中で様々な色をはっきりと見ることができる
のと同じです。)

まさにそのとおりです。菩薩道を歩む中で、行者が布施をする際に、般若の正しい知見
を悟り、それに基づいて行うとしましょう。つまり、施す者も空、施されるものも空、受
け取る者も空であると見抜きます。そして、布施の行為全体に、求める心も得ようとする
心もありません。そうすれば、菩薩は少しずつ、この世のあらゆる現象から離れていくこ
とができます。そして、それらの万法の実相(真実の姿)を見ることができるのです。こ
の過程は、まさに仏の譬えの通りです。般若の正しい知見に導かれた布施は、太陽の光が
明るく照らすように、菩薩の心の無明と闇を速やかに打ち破ります。一方、もし求める心、
執着する心、得ようとする心を抱いて布施を行うならば、どうなるでしょうか。どれほど
多くの布施を積もうとも、どれほど長く実践を続けようとも、結局は無明の闇の中に長く
留まり続けます。その結果、智慧の光は現れず、空性を証得することはできないのです。

さらに仏は、すべての仏弟子たちを励まされました。未来の世(もちろん私たちの時代
も含まれます)において、この経典で説かれる智慧を信じ、受け入れ、実践するようにと
勧められたのです。そこで仏は、繰り返しこの智慧がもたらす功徳について述べられまし
た。そして、こう言われました。「須菩提よ。もし未来の世に、善男子や善女人がいて、
この経典を読んだり、その教えを信じて実践したりするなら、私は仏としての限りない智
慧をもって、はっきりと言えます。そういう人たちはみな、計り知れないほどの大きな功
徳を必ず得るでしょう。」

「須菩提よ、たとえ善男子・善女人がいたとしましょう。その人が毎朝、恒河の砂の数
ほどもある自分の体や命を布施します。さらに正午にも、同じように自分の体や命を布施
します。午後にも、また同じように自分の体や命を布施します。このような布施を、百千
万億劫という気が遠くなるほど長い間、続けたとします。しかし、もし別の一人が、この
経典を聞いて、少しも疑わない絶対の信心を起こしたなら、その人の得る福徳は、先の人
の福徳よりもはるかに勝っています。ましてや、この経典を書き写し、心に受け止めて守
り、読誦し、さらに他人のために解説するなら、その功徳は比べ物にならないほど大きな
ものとなるのです。」

「須菩提よ、まとめて言うと、この経典には、想像もできず、はかりしれず、果てしな
く広い功徳がそなわっています。この経はもともと、自らも他者も救おうとする大乗の菩
薩のために説かれたものです。また、仏の最高で最も完全な悟りを求める人のために説か
れたものです。もし、この経典を自分で修行し、読誦し、さらに多くの人に説くなら、如
来ははっきりと言えます。その人は必ず、想像もできず、はかりしれず、果てしなく広い
功徳を成就するでしょう。そのような人は、如来の最高で最も完全な教えを担う者なので
す。」

さらに仏はこう言われました。「なぜそう言えるのでしょうか。須菩提よ。もし人が、
最高の教えではないものだけを喜んで学び、自己、他者、衆生、寿者といった様々な知見
に執着し、分別しているなら、その人はこの経典の真実の教えを正しく聞き入れ、理解す
ることはできません。ましてや、読誦したり、他人に解説したりすることは、なおさらで
きないでしょう。」

ここで仏は「楽小法者(らくしょうほうしゃ、不完全で不究竟な教えを好む者)」とい
う言葉について説明されました。「楽小法者」とは、どのような人でしょうか。例えば、
自分の「相」や「寿者」の相にこだわる人は、長生きの方法や神通力、不思議な術ばかり
を求めます。これが「楽小法者」です。そういう人は、仏が説かれる「空」の道理を素直
に受け入れることができません。たとえ道理を聞いて「なるほど」と思っても、その教え
に心を安住させて実践することはできません。例えば、何も求めず、何も得ようとせずに
布施をすることも、すべての「相」は虚妄であると理解して耐え忍ぶこともできません。
心の奥ではいつも自分を大切にし、自分が傷ついたり苦しんだりするのを恐れています。
また、さまざまな術を学んだり、禅定を修めたりするのも、自分を誇示したり、人とは違
う自分を見せたいだけのことです。だから仏は、「こうした楽小法者は、この経典が説く
最高の般若の智慧を、聞き入れたり、読誦したり、他人に説いたりすることはできない」
とおっしゃったのです。では、なぜ楽小法者は空性の正しい知見に安住できないのでしょ
うか。それは、彼らがすでに「我」「人」「衆生」「寿者」という四つの「相」に強く執
着しているからです。そのため、不完全で不究竟(ふくきょうょう、最終的な悟りに至ら
ない中途のもの) な小法ばかりを喜んで学び、大乗の空性の正見を素直に聞き入れ、読
誦し、他人に説くことができないのです。

「須菩提よ、この経典がある場所なら、どこであれ、すべての世界の人間や天(人)、
阿修羅たちは、その場所を供養しなければなりません。そこはまるで仏の舎利(しゃり、
仏の遺骨) を納めた塔があるのと同じです。ですから、みな恭敬して礼拝し、その周り
を右に回り、さまざまな花や香をまいて供養すべきなのです。」

さらに第十六品で、仏は次のように続けて説かれます。「須菩提よ。もし善男子・善女
人がいて、この経典を信じて修行し、読誦しているとしましょう。その人が他人から軽ん
じられ、侮辱され、からかわれたりするようなことがあったとします。たとえその人が過
去世で悪い行いをし、その報いで三悪道に堕ちるべきであったとしても、今世でこの経典
を受持する功徳によって、かえって他人から軽んじられるという逆縁(ぎゃくえん、一見
悪いようで実は良いきっかけとなる縁) によって、過去世の罪はたちまち消えます。そ
して、その人は無上正等正覚に至ることができるのです。」

仏はここで、この経典の智慧は悪業(あくごう、悪い行いによって生じる報いの種) を
消すことができると説かれています。もしある人が、その罪業によって本来なら三悪道に
堕ちるべきだったとします。しかし、この経典を信じ、受け入れ、修行して智慧を得たな
ら、その人は現世(げんせ、今この人生) で他人から軽んじられる(軽賤される)とい
う経験をします。すると、過去世の重い悪報(あくほう、悪い行いの結果として受ける苦
しみ) は小さくなり、そして消えてしまいます。つまり、大きな悪報が小さくなり、最
後にはなくなるのです。本来なら三悪道に堕ちるはずでした。しかし、ただ現世で軽んじ
られるという報いを受けるだけで済みます。それだけでなく、その人は必ず無上正等正覚
に至ることができます。このような仏の言葉は、末法の時代にあって、私たちを大いに励
まし、勇気づけるものだと、私は思います。

この話を聞くと、ある友人のことを思い出します。彼が『金剛経』を信じて実践してい
た頃のことです。この部分を読んで、彼は私にこう言いました。「俺はきっと、何度も生
まれ変わってきた中で、たくさんの悪いことをしてきたに違いない。今の人生だって、こ
こ数十年、ろくなことをしてこなかった。でも仏様が言うには、『金剛経』を受持読誦し
ている時に誰かに軽んじられれば、悪い報いは消えて、悟りさえ開けるんだって。困った
のは、今のところ俺を軽んじてくれる人がいないんだ。君は友達だろう?手伝ってくれよ。
俺を軽んじてくれ。」

もちろん、これはただの冗談です。しかし、もし本当に仏陀の説かれる「無我(むが、
自分という実体はないこと)」と「無衆生(むしゅじょう、衆生という実体はないこと)」
の道理を理解しているなら、あなたの前念(ぜんねん、過去の心の動き) が、まさにお
経を読みながらかつての悪業を背負って地獄に堕ちるべき者です。そして、後念(ごねん、
後の心の動き) が、その前念を軽んじる者なのです。「我」も「衆生」も実体でないと
悟った瞬間、悪業はすでに消え去り、無上正等正覚を成就することができるのです。

確かに、この世で般若の空性の理を実践している時に、もし誰かに軽んじられたり、悪
く言われたりしたら、仏の言葉を思い出すべきです。そして、怒らずに、むしろその人た
ちに感謝し、礼拝することです。なぜなら、彼らはあなたの悪い報いを消す手助けをして
いるからです。実際、この世界では、特にここ数十年の間、もし誰かに「すべては空であ
る」という教えを説明しようとすると、必ず「迷信だ」「まともな仕事をしていない」と
言われたものです。『金剛経』という名前を口にしただけで、軽んじられたこともありま
した。しかし、ここ数年は、多くの人が生命の真実や生きる意味を探し始めました。その
ため、無知からくる軽んじや悪口は、以前よりもずっと少なくなっています。

仏はさらに、須菩提にこう仰いました。「須菩提よ。私は今、遠い過去のことを思い出
します。かつて燃灯仏のもとで、八百四千万億那由他(はっぴゃくしせんまんおくなゆた)
という無数の仏にお会いしました。その一仏一仏に対して、私は心を尽くして供養し、恭
敬の念を捧げました。その貴い機会を、私は一度も無駄にしませんでした。しかし、もし
私が入滅した後の末法の世に、この経典を受け止め、守り、読誦する人がいるとします。
その人が得る功徳は、私が無数の仏に供養した功徳よりも、はるかに大きいのです。私の
功徳は、その人の功徳の百分の一にも、千分の一にも、万分の一にも、億万分の一にも及
びません。いえ、どんな計算や例えをもってしても、その差を測ることさえできないので
す。」

「須菩提よ。もし私が入滅した後の末法の時代に、善男子や善女人がいて、この経典を
信じ、受け入れ、修行し、読誦するならば、その人が得る福徳や功徳について、私が一つ
一つ詳しく説明するとしましょう。すると、それを聞いた人は、きっと理解できず、かえ
って疑いや信じようとしない心を起こしてしまうでしょう。」「須菩提よ、よく覚えてお
きなさい。この経典の説く教えは、まさに不可思議(ふかしぎ、言葉では言い表せないほ
ど不思議なこと) です。そして、それを修行して得られる果報もまた、同じく不可思議
(ふかしぎ) なのです。」

仏はこの言葉で、この経典を受持読誦する功徳を称えるだけでなく、その果報(かほう)
が「不可思議(ふかしぎ)」であると説かれました。仏法では、因果の道理を説いていま
す。すなわち、どのような因(いん)を種(ま)けば、それに応じた果報が得られる、と
いうことです。善い行いには善い報いがあり、悪い行いには悪い報いがあります。今、私
たちが『金剛経』を読み、仏の般若智慧を知る。これ自体も一つの因です。そして、この
因から生じる果報は、想像をはるかに超えた、まさに不可思議なものです。この般若智慧
がもたらすすべての功徳の相について、仏はこう言われました。「もし私がそのすべてを
詳しく説けば、聞いた人はかえって心を乱し、疑って信じようとしないでしょう。」今日、
私たちは科学が非常に発達したと自負しています。しかし、すべての生命の真実について
は、まだ十分に理解していないと、私は思います。

今日、たとえ仏が般若の智慧がもたらす功徳を説いたとしても、仏教を信じない人は疑
って信じようとしないでしょう。また、深く仏を信じる人でさえ、そのあまりにも大きな
功徳に心が乱れてしまうかもしれません。なぜなら、それは不可思議(ふかしぎ、言葉で
は言い表せないほど不思議なこと) であり、人間の意識や認識の限界をはるかに超えて
いるからです。





コメントする