第二十二品 無法可得分(だいにじゅうにほん むほうかとくぶん)、第二十三品 浄心行善分(だいにじゅうさんぼん じょうしんぎょうぜんぶん)

須菩提は仏に白して言わく、「世尊よ、仏の阿耨多羅三藐三菩提を得たもうは、得ると
ころ無しと為すや。」「かくの如し、かくの如し。須菩提よ、我れ阿耨多羅三藐三菩提に
おいて、乃至少しの法得べきモノ有ること無し。これを阿耨多羅三藐三菩提と名づくるな
り。」「また次に、須菩提よ、この法は平等にして、高下有ること無し。これを阿耨多羅
三藐三菩提と名づく。我も無く、人も無く、衆生も無く、寿者も無きを以って、一切の善
法を修むれば、すなわち阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。須菩提よ、言うところの善法と
は、如来は善法に非ずと説きたればなり。これを善法と名づくるなり。」

この品の大意は、須菩提が仏陀にこう尋ねたことです。「世尊、仏が最高に円満な悟り
を得るということは、つまり『無所得(むしょとく、得るべきものがないこと)』という
ことなのでしょうか。」

仏はこうお答えになりました。「そうです、その通りです。須菩提よ、私は無上正等正
覚はもちろん、この世の一切についても、少しも本当に得たものはありません。この『無
所得』の境地こそが、無上正等正覚、すなわち最高で最も円満な悟りと呼ばれるのです。」

この品の問いは、須菩提が仏と何度か交わした問答にも見られます。例えば第十品では、
次のようなやりとりがあります。仏が須菩提に問われました。「於意云何,如來昔在燃燈
佛所,於法有所得不(意においていかに。如来は昔然燈仏の所に在し、法において得る所
有りしや、いなや)。」須菩提は答えました。「不也,世尊。如來在燃燈佛所,於法實無
所得(いななり、世尊。如来は然燈仏の所に在りて、法において実には得る所なし)。」
ここでの仏と須菩提の対話は、弟子たちに法相(ほうそう、法という相、すなわち仏法に
は定まったものがあると執着すること) に執着してはならないと教え、「得るべき法が
ある」「得るべき果位がある」という心を打ち破るためのものです。

二度目は第十七品で、次のような問答があります。仏が須菩提に問われました。「須菩
提,於意云何。如來於燃燈佛所,有法得阿耨多羅三藐三菩提不(須菩提よ、意において云
何に。如来の然燈仏の所において、法として阿耨多羅三藐三菩提を得たるもの有るやいな
や)。」須菩提は答えました。「不也,世尊。如我解佛所說義,佛於燃燈佛所,無有法得
阿耨多羅三藐三菩提(いななり、世尊よ。我れ仏の説きたもう所の義を解する如きは、仏
は然燈仏の所において、法として阿耨多羅三藐三菩提を得たるもの有ること無し)。」こ
の対話の核心は、法を聞く人々に「無上正等正覚を成就する者」という実体はないことを
示し、我相(がそう)を破ることにあります。さらに仏はこう続けられました。「須菩提,
若有法得阿耨多羅三藐三菩提,燃燈佛即不與我授記,汝於來世,當得作佛,號釋迦牟尼……
若有人言,如來得阿耨多羅三藐三菩提。須菩提,實無有法,佛得阿耨多羅三藐三菩提(須
菩提よ、もし法として如来の阿耨多羅三藐三菩提を得たるもの有りとせば、然燈仏はすな
わち我に授記をあたえ、『汝は来世において、まさに仏になることを得て、釈迦牟尼と号
すべし』とはせざりしならん……(中略)もし人有りて、『如来は阿耨多羅三藐三菩提を
得たもう』と言わんも、須菩提よ、実に法として、仏の阿耨多羅三藐三菩提を得たるもの
有ること無し)。」このように繰り返し説くことによって、衆生は真空の境地には「我」
も「人」もないという真理を知らされるのです。

したがって、第二十二品において、須菩提はこう尋ねました。「世尊よ、仏が阿耨多羅
三藐三菩提を得るということは、つまり『無所得』ということなのでしょうか。」これは
実に見事なまとめです。言い換えれば、「無所得」こそが、仏が得た無上正等正覚そのも
のなのです。つまり、すべての諸法(しょほう、すべての現象)は虚妄であり、本当に得
られるものは何もない。そのことを悟ることが、円満な覚りなのです。仏はこうお答えに
なりました。「そうです、その通りです。すべての万法(まんぽう、あらゆる現象)は空
です。だからこそ、如来が無上正等正覚を悟ったといっても、この世の一切を含めて、少
しも本当に得たものはありません。この覚りを『無上正等正覚』と名づけているのです。」

ここでの須菩提と仏の対話が示しているのは、次のことです。人も法もともに空である
と徹底的に見抜き、得ようとする心が完全に消え去ったとき、それがすなわち無上正等正
覚を得た境地なのです。ここで私たちは、『金剛経』の冒頭を思い出す必要があります。
この経典は、須菩提が「無上正等正覚を求める者は、どのようにして心を安んずべきか」
と質問したことから始まりました。今、私たちが探求しているのは、その無上正等正覚そ
のものの本体です。「無上正等正覚を得る」とは、そもそも何を意味するのか。「如来」
とはいったい何か。この本体の意義を深く理解することが、すなわち修行と証悟であり、
それによって初めて心は真に安住するのです。次の品でも、仏と須菩提はこの根本的な問
いを巡って、対話を続けていくことになります。

第二十三品で、仏はこう言われました。「また、須菩提よ。この法は平等であって、高
くも低くもありません。これを『阿耨多羅三藐三菩提(無上正等正覚)』と名づけます。
我・人・衆生・寿者といった考えを離れ、すべての『善法(善い行い)』を修めれば、そ
の人は無上正等正覚を得ることができるのです。須菩提よ、いわゆる『善法』というもの
も、如来の見地からすれば、それは実体としての善法ではありません。ただ仮に『善法』
と名づけているだけなのです。」

第二十二品と二十三品は、合わせて仏が「無上正等正覚」をとても明確にまとめたもの
です。私たちは普段、無上正等正覚を求め、仏の果を得ようと発心します。ここで仏は、
すべての弟子にこう教えられます。「行者が、すべては虚妄であると見抜き、得ようとす
る心が尽き、どんな相にも執着せず、万法(すべての現象)が平等であるという心を持っ
たなら、それを『無上正等正覚を得た』と言うのです。」さらに、その具体的な方法も示
されます。「一切の相に執着せず、すべての善法(善い行い)を行いなさい。ただし、善
法という相にも執着してはいけません。そうすれば、無上正等正覚を得ることができるで
しょう。」これこそが菩薩の修証の道であり、善法の相に執着せず、小さな善行であって
も軽んじてはなりません。この二品の教えは、末法の時代に生きる衆生が仏法を修行する
上で、本当に非常に重要だと思います。

末法の時代、多くの人は仏法を学びながらも、この世のすべてを手放せません。仏の悟
りも、この世の幸せも、どちらも欲しいと願います。その結果、仏道を求めること自体が、
自分の欲望を満たしたり、自分の価値を誇示する手段になってしまいがちです。実は、す
べてを手に入れたい、自分の価値を認められたいと思うのは、人間として自然なことであ
り、それが悪いわけではありません。しかし、仏はこう教えられます。万法(まんぽう)
は、さまざまな縁が集まって仮にできた名前にすぎません。そこには不変の自性(じしょ
う)はありません。だから、この世の中で得られるものも、仏法の中で得られると思って
いるものも、本当に「得る」ものは何ひとつないのです。さらに、あなたの「自我」でさ
えも虚妄です。本当に幸せを楽しんだり、苦しみを受け止めたりする実体は、どこにもあ
りません。この真理を深く理解すれば、所得心(しょとくしん)は消え去ります。万法皆
空(まんぽうかいくう)という道理を本当に悟れば、平等心(びょうどうしん、すべての
ものを差別なく見る心)が生まれます。そうすれば、さまざまな差別相(しゃべつそう)
に心を振り回されることはなくなります。そして、万法皆空・平等の境地に安住するとき、
あなたとこの世界のすべては、もはや変化・生滅・得失を超えます。心は永遠に安らぎ、
苦しみや煩悩から解放されるのです。つまり、「無所得(むしょとく)」の境地こそが、
あなたがすべてを永遠に持つ状態なのです。この境地に達するために、仏は簡単で実践し
やすい道を示してくださいました。それが「一切の相に執着せず、すべての善法(善い行
い)を行う」ということです。

また、こう考える人もいるでしょう。「一切は空であり、無所得であるなら、私は何を
すればいいのか。何を修行すればいいのか」と。「一切は空である」というのは仏の教え
です。しかし、私たちはただこの言葉を聞いただけでは、「所得心」はまだ尽きていませ
ん。万法は依然として私たちに強く影響を与えます。また、ある人はもう何も気にしなく
なった、すべてに興味も情熱も失った、と感じるかもしれません。しかし、それは仏の説
かれる「無所得」の心ではありません。それはただの無気力や退屈にすぎません。仏の説
かれる無所得・平等心を証得するには、仏が説かれた通りに実践する必要があります。「相
に執着しない心で、一切の善法を修めよ」と。では、「相に執着しない心」とは何でしょ
うか。それは、一切が虚妄であると知ることです。その知見によって、身心内外のいかな
る境にも振り回されず、心が安住できる状態。これが相に執着しない心です。修行者がこ
の境地に安住し、日々を重ねるにつれて、所得心は次第に尽きていきます。特に最後に、
智慧の相や仏の相といった微細な執着さえも破り尽くした時、初めて自分と世界の万法が
平等であると気づきます。そして、心・仏・衆生の三つに差別がないことを知るのです。
そうして初めて、如如不動の平等心が真に生じるのです。

また、このように考える修行者もおられます。「一切は空であり、無所得・無所失(む
しょとく・むしょしつ、得るものも失うものもないこと)であるならば、悪法(あくほう、
悪い行いや教え)を行っても悟りを開くことができるのではないか」と。それはできませ
ん。百人のうち九十八人はできないでしょう。なぜなら、悪法を行うことは逆縁(悪い縁)
を多く生み、修行の道にはあまりに多くの障がりが現れるからです。さらに、悪法を修め
る者は、皆、極端に我執が強く、自己中心的な人です。なぜ人が悪を行い、殺生や放火、
他者を傷つけるのでしょうか。人道的な観点から見れば、通常は私利私欲を満たすためで
す。これほどまでに私欲の深い人が、どうして悟りの道を成就できましょうか。どうして
円満なる慈悲と智慧を証し得ましょうか。

また、次の二種類の人には可能です。一つは、示現(じげん、仏や菩薩が衆生を救うた
めに仮に姿を現すこと)のために現れる大菩薩(だいぼさつ)です。彼らは、衆生が「善
法」の相に執着するのをやめさせるために、あえて善法への執着を破るような行いをしま
す。そもそも善悪とは、個人の業(こじんのごう、一人ひとりが背負う業)や共業(くよ
う、多くの人に共通する業の結果)の因果にすぎず、人間が決めたものです。法界(ほっ
かい)の立場から見れば、衆生が何度も生まれ変わる長い時間の中で、絶対的な善悪の基
準などありません。このような大菩薩は、本当に大雄大力(だいゆうだいりき、偉大な勇
気と力)を持っています。彼らは、万年にわたって悪名を負い、さらには衆生から呪われ
るような果報(かほう)を引き受けても、ある人々を成就させるために尽くします。この
ような菩薩は極めて珍しく、また、普通の衆生には知ることも理解することもできません。
もう一つは、魔王(まおう)の域に達した者です。彼もまた、一切は空であり、何ものに
も執着しないことを理解しています。そのため、人を殺すことが草を刈るように、心の中
に少しの跡も残しません。しかし、魔王は我慢(がまん、傲慢、慢心)が非常に強く、し
かも「空」に執着した空我(くうが、空にこだわる自我)をまだ破っていません。そのた
め、悪い業の結果が熟すと、その果報は非常に悲惨なものになります。しかし、もし彼が
一瞬の反省から慈悲の心を起こし、屠刀(ととう、人を殺す刀)を捨てるならば、その場
で即座に成仏(じょうぶつ)することができます。これが「放下屠刀、立地成仏(ほうげ
ととう、りっちじょうぶつ)(殺しの刀を捨てれば、その場で仏になる)」という言葉の
意味です。

したがって、もし私たちがこの二種類の人に当てはまらないなら、無我・無人・無衆生・
無寿者の心を持って、すべての善法を行い、しかも善法の相にも執着してはいけません。
仏はこう言われます。「いわゆる『善法』というものは、実は善法ではありません。ただ
仮に『善法』と名づけているだけです。」なぜなら、すべての善法も、人間が人道の道徳
や善悪の基準に基づいて決めたものにすぎません。しかし、その善悪の因果を知っている
人はほとんどいません。また、如来の真空の境地には、生じる法は一つもありません。す
べては縁起(えんぎ、原因や条件によって生じること)と縁滅(えんめつ、原因や条件に
よって滅すること)によって成り立ち、ただの幻のようなものなのです。

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