どれほどの時が流れたのか分からないころ、ひんやりとした風が大悲の頬をそっと撫でた。
大悲はゆっくりと目を開いた。自分が巨大な蓮の花の上に横たわっていることに気づく。
上体を起こして周囲を見渡すと、視界の果てまで一面の蓮の海が広がっていた。
少し離れたところ、別の蓮の上には多智が目を閉じて座っている。
彼の身体からは、灯火のように明滅する光が漏れ、その表面からは、毒が蒸気のようにふわり、ふわりと立ちのぼっていた。
大悲は不思議に思い、自分の身体に目を落とした。
その瞬間、胸の奥に「何かがおかしい」という感覚が走った。
よく見ると、自分の身体はすでに透明な「瑠璃(るり)の身体」へと変わっていたのだ。
透明な身体の内側では、一本一本の光の柱がきらめきながら走り、絶えず明滅している。
大悲はそっと手足を動かしてみた。
身体は驚くほど軽く、重さという感覚がほとんどない。
まるで「身体」という殻が消えてしまい、ただ光だけがそこに在るようだった。
大悲の胸に、喜びがふわりと広がった。
「毒は、すっかり消えたんだ……。」
彼女はそう確信した。
そして心の中で思った。
「ここはきっと、あの万手万眼の神人様のお住まいなのだわ。」
「きっと、私と多智は、神人様のお力をいただいて、今の姿に生まれ変わったんだ。」
そう考えた途端、大悲は自分の使命を思い出した。
彼女は勢いよく立ち上がり、周囲を見回しながら、大声で呼びかけた。
その刹那、四方八方から幾万もの金色の光が一斉に集まり、ひとつの場所へと収束していった。
金光が一点に凝ると、その中心から、眉も髪も真っ白な老女の姿が現れた。
老女は空中からゆっくりと降り、大悲の目の前にふわりと立った。
「子どもよ、目を覚ましたのかい?」老女はやさしく声をかけた。
「おばあさん、私を救ってくださったのはあなたですか? あなたが万手万眼の神人様なのですか?」
大悲は目の前の慈愛に満ちた老女を見つめ、胸を高鳴らせて尋ねた。
老女は首を横に振った。
「いいえ、子どもよ。さっきまで、お前たちは光幻境の中で神の光に縛られて、動くこともできなかったのだよ。」
「ここまで連れてきたのは、年寄りのわしだ。だが、わしは万手万眼の神人ではない。わしは、あのお方に仕える侍女にすぎん。」
「神人様は、この先にある『縁起島(えんぎとう)』にお住まいだよ。ほら、あそこを見てごらん。」
老女の指差す方角を見ると、少し離れたところに小さな孤島が浮かんでいるのが見えた。
島の周りは白い霧にすっぽりと包まれ、その下が水なのか、光なのかさえ分からないほど、深く、はかり知れない気配をたたえていた。
「子どもよ、お前は多宝如意王のもとから来たのかい?」
老女がふいにそう問いかけた。
老女は「ほほほ」と声を立てて笑った。
老女が笑うたびに、大悲は全身をあたたかな流れが通り抜けていくのを感じた。
「わしは、あんたたちの星に行ったことがあるのさ。」
老女はそう言いながら、大悲の胸元に視線を向けた。
「お前の胸にある摩尼宝珠(まにほうじゅ)と天目神鏡は、どちらも多宝如意王の宝物じゃ。」
大悲もつられるように胸を見下ろした。
そこで初めて、自分が瑠璃体に変わったことで、摩尼宝珠と天目神鏡が身体から離れ、独立した姿として胸の内側に輝いているのに気づいた。
身体が透き通っているため、外からでも宝珠と神鏡の姿がはっきりと見えるのだ。
「おばあさん、あなたは父王に会ったことがあるのですか?」
自分の星に行ったことがあると聞いて、大悲の胸は喜びでいっぱいになった。
「そうとも、お前はやはり多宝王の娘、大悲に違いない。」
老女は大悲の問いには直接答えず、何度も感嘆しながら言った。
「多宝王は本当に慈悲深いお方だ。自分の娘を、この五毒の集まる星にまで遣わすとは……。」
「子どもよ、万手万眼の神人様は、わしにここでお前を待つよう仰せになった。」
「もう二百年以上も前のことだよ。ようやく、お前に会うことができた。」
老女はそう言いながら、身につけていた布袋から一冊の本を取り出した。
「これを、お前に渡してほしいと、神人様から言付かっている。」
大悲は慌てて両手を差し出し、本を受け取った。
表紙には、大きな「縁(えん)」の一文字だけが刻まれていた。
大悲がその字を見つめ、「これはどういう意味なのだろう」と考えた瞬間、表紙の文字がふいにくるくると回転を始めた。
同時に、その字から無数の金色の光が放たれ、その光がまっすぐ大悲の身体の中に伸びてきた。
金光は、大悲の瑠璃の身体の内側を走る白い光の柱と次々に結びつき、やがてすべて大悲の中へと吸い込まれていった。
それと同時に、表紙にあった「縁」の字は、すっと消え去った。
大悲がそっと本を開いてみると、中は真っ白で、一文字も書かれていなかった。
彼女は慌ててページをめくったが、どのページにも一字も書かれていない。
大悲が途方に暮れた顔をしているのを見て、老女がやさしく言った。
「子どもよ、これは『無字天書(むじてんしょ)』と呼ばれるものだよ。」
「この書と縁のある者には、必要なときに、文字や絵が自然と現れて、助言を与えてくれるのさ。」
「おばあさん、わたしたちを縁起島まで連れて行っていただけませんか?」
「私は一刻も早く、万手万眼の神人様にお目にかかりたいのです。」
老女はふっと謎めいた笑みを浮かべた。
「子どもよ、縁起島はね、縁ある者でなければ、みだりに足を踏み入れることはできないところなんだよ。」
「見てごらん、島のまわりは万丈の深淵だ。その底には、毒気と苦海が満ちていた。」
「昔、そこには九条の悪龍が棲んでいたが、のちに神人様に調伏され、島の護法神となったのさ。」
老女は少し目を細め、遠い昔を懐かしむように続けた。
「二百年前、わしは一度だけその島に渡ったことがある。」
「島には獅子の王、鳳凰、孔雀といった、さまざまな瑞鳥や珍しい獣たちが棲んでいた。」
「あのころは、自性山(じしょうざん)の上から、いつもその小島が吉祥の雲に包まれているのが見えたものだ。」
「五色の瑞雲のあいだからは、かすかな仙楽が響き、金色の鳳凰が舞い出てくることもあった。」
老女の声は少し寂しげになった。
「だがこの二百年というもの、島の上空に見えるのは、ただ重く垂れこめた愁いの雲と暗い霧ばかり。」
「島の中で何が起こっているのか、今のわしにはまったく分からんのだよ。」
「では、神人様は今もあの島におられるのですか?」
大悲が尋ねた。
「島はそれほど大きなものではない。お前が島に渡りさえすれば、すぐに分かるさ。」
老女は意味ありげな笑みを浮かべると、すっと立ち上がった。
「子どもよ、わしの役目はもう終わった。」
「そろそろ行かねばならない。あとはお前自身の身を大切にするのだよ。」
大悲が何か言おうとしたときには、もう遅かった。
老女の姿は突然、幾万もの金色の光の筋へとほどけ、それらは四方八方へと散っていった。
「集まれば形となり、散れば気となる……。」
大悲は呆然と、老女の消えていった空間を見つめながら、小さな声でそうつぶやき、ただただ驚嘆した。
「大悲。」
そのとき、多智が目を覚まし、蓮の上から大悲のほうへ歩み寄ってきた。
解毒を終えた多智は、顔立ちがいっそう清らかに整い、どこか仙人のような風格さえ漂わせていた。
「多智、さっきわたしたち、光幻境から抜け出したのよ。あなたも解毒できたわ。」
大悲はうれしさのあまり、早口でそう告げた。
しかし多智は、その言葉が耳に入っていないかのように、大悲の前に立ちつくし、じっと彼女の姿を見つめ続けた。
その顔には、言葉を失った驚きがありありと浮かんでいる。
「多智!」
大悲が大きな声で呼びかけると、多智はようやく我に返った。
「大悲、お前……瑠璃の身体になっているじゃないか。こんなこと、信じられない……!」
「何をそんなに驚いているの? 私たちの星の人はみんな本来『光の化身』でしょう。これくらい、大したことはないわ。」
「そ、そうかもしれないけれど……。」
「でも、こんなふうに変わった人を、僕は一度も見たことがない。」
「僕が仏幻境にいたころ、ある洞主が、昔の洞主の中に、こういう姿になった人がいた、と話してくれたことがある。」
「そのときは半信半疑だったけれど……本当に、こうなることがあるんだな。」
「多智、いつまでも私ばかり見ていないで。まだ大事なことが残っているでしょう。」
大悲はそう言って、先ほど老女と交わした出来事を、かいつまんで多智に話して聞かせた。
「多智、今、私たちはどうしてもあの島に行かなければならない。」
「でも、どうやって渡ったらいいのかしら。」
多智も島のほうを見つめながら、しばらく考え込んだ。
しかし、すぐにはよい方法が浮かんでこない。
そのときだった。
大悲の手に持たれていた天書が、再び金色の光を放ち始めた。
大悲が慌てて本を開くと、あるページに、いくつかの金色の大きな文字が現れていた。
大悲は思わず声に出して読んだ。
「多智、天書が、島へ渡る方法を教えてくれようとしている。」
多智の目も輝いた。
「九条の龍を、一か所に集める……ってことか?」
二人が息を殺して待っていると、天書は再び輝き、今度はその下に新たな一行が浮かび上がった。
大悲と多智は、同時に息を呑んだ。
「多智、この本は、本当に不思議ね。」
「どうして、私たちが摩尼宝珠を持っていることを知っているのかしら。」
そう言うと、大悲はすぐに目を閉じ、観想に入った。
彼女の内なる視界の中で、摩尼珠がまっすぐ自分の頭頂へ向かって飛び上がるのが見えた。
頭頂は静かに開き、そこから一輪の蓮の花が現れた。
摩尼珠はその蓮の花の中心にふわりと乗り、やがて蓮ごと頭の上に据えられた。
大悲は蓮の中からそっと宝珠を捧げ持った。
摩尼珠そのものは、まったく光を発していなかったが、この星のあらゆる光を柔らかく受け止め、やさしい輝きへと映し返していた。
多智は、大悲が本当に摩尼珠を取り出したのを見て、思わずためらいを口にした。
「大悲、これは僕たちの星の宝物だ。僕たちが勝手にここへ置いていってしまっていいのかい?」
「多智、それは大した問題じゃないわ。」
「戻ったら、父王には私からきちんと説明する。」
「今は、まず神人様を見つけることのほうが大事よ。」
多智はしばらく黙って大悲を見つめ、やがて覚悟を決めたようにうなずいた。
「分かった。」
彼は摩尼宝珠を受け取り、孤島の上空めがけて大きく投げ上げた。
眩い白い光の筋が、宝珠を包み込みながら島の上空へと弧を描いて飛んでいく。
その刹那、谷全体を揺るがすような低く長い龍の咆哮が、自性山に響き渡った。
同時に、九つの金色の光の柱が、暗い谷底の奥深くから立ち上がり、まっすぐに摩尼珠へと向かって駆け上がっていった。
「わあ……九龍会聚だ!」
空には金色の光が渦巻き、幾条もの金の蛇が舞い踊るように翻っていた。
摩尼珠は白い光の塊へと変わり、その金光の中を自由に飛び回っている。
大悲と多智は、その異様で壮麗な光景に、ただ立ち尽くして見入るしかなかった。
突然、天空を切り裂くような巨大な白光が走り、山が崩れ、大地が裂けたかのような轟音が響いた。
幾度か龍の咆哮が重なり、ふたりはその音の衝撃で気を失いそうになった。
やがて気を取り直して空を見上げると、小島の上空には、もう何も残っていなかった。
ただひとつ、虹のような弓なりの橋が、島からこちら側まで伸びているのが見えた。
橋の表面にはかすかに金色の光がきらめき、それはまるで龍の鱗が陽光を受けて輝いているかのようだった。
多智と大悲は、慎重に一歩ずつ橋を渡っていった。
ふたりが島に足を踏み入れた瞬間、背後の虹の橋は音もなく空中から消え去った。
島に降り立った大悲と多智の目に飛び込んできたのは、一面の荒涼とした光景だった。
島には雑草が生い茂り、あちこちに動物たちの白くなった骨が散らばっている。
泥と腐敗した水がたまった沼地からは、鼻を突くような悪臭が立ち上っていた。
ふたりがまだ数歩進んだところで、多智が叫んだ。
「大悲、見て!」
少し先の草むらの中に、巨大な白い毛並みの獅子が一頭、身を伏せていた。
獅子は銅鑼のような大きな目を見開き、じっとふたりのほうを見据えている。
多智は慌てて大悲の前に立ちふさがった。
獅子がいつ彼らに飛びかかってくるか分からないと、身構えたのだ。
しかし大悲は、獅子の空ろで力のない眼差しを見つめながら、どこか「懐かしさ」のようなものを感じていた。
やがて獅子は、ゆっくりとふたりのほうへ歩いてきた。
そのとき、ふたりは初めて気づいた。
この獅子は、骨ばかりになるほど痩せ細り、歩けば身体が頼りなく揺れているのに、それでも一目見ただけで王者と分かる威厳を失ってはいなかったのだ。
「もしかして……獅王(しおう)なの?」
大悲は、親しい友に呼びかけるように獅子に声をかけた。
獅子は、大悲の言葉が分かったかのように、穏やかな様子で彼女に近づき、差し出された大悲の手をぺろりと舐めた。
それを見て、多智も興奮気味に手を伸ばし、獅子の頭をひとなでしようとした。
大悲が「多智、待って」と制止しようとしたときにはもう遅く、多智の手のひらには「痛っ!」という声とともに激しい痛みが走った。
獅王の乱れた毛が、無数の硬い棘のように変わっており、多智の手のひらを何か所も突き抜いていたのだ。
多智の掌からは、白い乳汁のような血がゆっくりと滴り落ちた。
喉の奥から低い咆哮を漏らしながら、獅王はまるで「気をつけぬからだ」とでも言いたげに、不機嫌そうに唸った。
「大悲、僕の血、白い乳になってる!」
多智は自分の手から流れ出る白い血を見て、驚きの声を上げた。
その白い滴がいくつか獅王の頭に落ちると、さきほどまで乱雑に逆立っていた毛が、たちまち滑らかで艶やかな毛並みに変わっていった。
それを見ると、多智は自分の血の滴る手を、獅王の鼻先のほうへと差し出した。
獅王は一瞬ためらったあと、その手をぺろりと舐めた。
瞬く間に、多智の傷はふさがり、痛みも消えた。
多智の血を舐めた獅王は、急に全身に力がみなぎり始めた。
両目には鋭い光が宿り、その身体の筋肉はみるみるうちに盛り上がっていく。
やがて獅王は明らかに興奮した様子で、大悲と多智のまわりを軽やかに何周か走り回ると、島の中央に突き出た大きな岩の上へと駆け上がった。
そして天に向かって、腹の底から響くような咆哮をあげた。
その瞬間、空はみるみる暗くなり、砂や石が風に舞い上がり、小島全体が揺れ動いた。
島の上空には次々と稲妻が走り、その稲光が獅王めがけて落ちていく。
雷鳴とともに、狂ったような暴風雨が島を襲った。
獅王は一歩も退かず、嵐の中に堂々と立ち続けた。
王者の風格を全身にまとい、天に向かって何度も怒りにも似た雄叫びを響かせている。
それは、暴風雨そのものを楽しんでいるかのようでもあった。
ついにいく筋かの稲妻が獅王の身体に直撃した。
一瞬にして、獅王の身体は巨大な光の塊となり、やがてその光はだんだんと縮んでいった。
「獅王!」
大悲と多智は、島の片隅で岩陰に身を伏せながら、その様子を見ていた。
稲妻に包まれた獅王の姿が消えたのを見て、大悲は思わず立ち上がり、何も顧みずに光の消えた場所へと駆け出した。
そこにはもう獅王の姿はなかった。
獅王の立っていた岩の上には、銀色の光を放つ一つの瑠璃の瓶が置かれているだけだった。
大悲がそっとその瓶を手に取ると、瓶の表面には「功徳宝器(くどくほうき)」という文字が透けるように浮かんでいた。
多智も駆け寄ってきた。
そのときには、島全体は再び静けさを取り戻していた。
先ほどまでの暴風雨に洗われて、島の上はずいぶんときれいになり、空気もいくらか清らかになっていた。
ただ、空だけはまだ晴れきらず、どんよりと灰色の雲が垂れ込めていた。
「大悲、それはきっと、神人様が功徳の水を注がれるための宝器だ。」
多智は瓶をしげしげと眺めながら言った。
「でも、中には水が一滴もない……。」
「神人様は、本当にこの島にいらっしゃるのかしら。」
大悲は不安そうに多智を見つめた。
「功徳の水が満たされたとき、神人様は現れるのだと思う。」
多智は静かに答えた。
「じゃあ、どうすれば功徳の水を満たすことができるの?」
「功徳宝器はからっぽ……。まさか、この星の人たちは、善い心を一度も起こさず、一つの善行もしたことがないっていうの?」
大悲は悲しみと失望をにじませながら、多智を見つめた。
「そんなことはないさ、大悲。」
「ただ、人々はあまりにも深く毒に侵されてしまったんだ。」
「毒に染まった眼・耳・鼻・舌・身・意で物事を見聞きし、判断しようとすれば、どうしても錯覚が生まれ、さまざまな幻境が立ち上がってしまう。」
「その幻境に執着してしまえば、何が本当の善で、何が本当の悪なのか、見分けることはとても難しくなる。」
多智は、少し冗談めかした口調で続けた。
「だから、本当は功徳の水は本来、ちゃんとあるはずなんだ。」
「ただ、人々がほんの少し善い心を起こし、一つ善行をしたとしても、そのあとで山ほど悪いことをしてしまう。」
「そうやって起こった悪念の風が、せっかく湧いたばかりの功徳の水を、いつもあっという間に吹き飛ばしてしまうんだろうね。」
大悲は思わず笑い、すぐにまた真剣な顔に戻った。
「そうね。さまざまな毒に絡め取られ、幻境に執着して毒が発作するたびに苦しんでいる人たちを思うと、本当にかわいそうだわ。」
「わたしたちは、一刻も早く、彼らを救う方法を考えなければならない。」
そのとき、多智が叫んだ。
「天書だ!」
天書が再び光を放っていた。
多智は急いで本を開いた。
あるページに、はっきりとこう書かれていた。
「身を捨てるって……どういう意味?」
大悲がつぶやくと、天書にはすぐに次の一行が浮かび上がった。
「捨身崖……?」
大悲と多智は、島のまわりを探し始めた。
ほどなくして、島の一角に、天へ向かって突き立つような巨大な岩がそびえているのを見つけた。
その岩の表面には、金色の大きな文字で「捨身崖」と刻まれていた。
その脇には、小さな字で次のような文が添えられていた。
「この崖の下には、あらゆる幻境が集まり、毒気は骨を腐らせ、魂をも焼き尽くす。苦海は底なし。」
ふたりが崖の下をのぞき込むと、黒・緑・赤の色を帯びたガスの塊が、苦海の上で竜巻のように巻き上がり、うねりながら渦巻いていた。
吹き上がる気流の向こうに、さまざまな幻境の断片がちらちらと現れては消えていくのがかすかに見えた。
大悲と多智は顔を見合わせた。
「大悲、そんなはずはない。」
「天書は、きっと僕たちをからかっているんだ。」
「せっかくここまで上がってきたのに、どうしてまた下へ戻らなきゃならない?」
「それに、ここから飛び降りて、本当に戻ってこられると思う?」
「ほら、ここには『骨を腐らせ、魂を消し去る』って書いてある。」
「今の君にはもう摩尼宝珠の守りがない。下りれば、魂も肉体もばらばらになってしまう。」
多智は必死に大悲を引き留めようとした。
「多智、私にはもう時間がないの。」
「一人でも多くの人を、毒の幻境から一刻も早く解き放ちたい。」
「天書は嘘をつかないわ。」
「あなたはここで神人様を待っていて。」
「大悲、絶対にだめだ!」
「もし誰かが飛び降りなきゃならないなら、それは僕が行くべきだ。」
「天書は、『お前だけは飛び降りるな』なんて、一言も書いてなかった!」
多智は声を荒げた。
「多智、争う必要はないわ。」
「天書が私に飛び降りろと言っているのには、きっと理由がある。」
「私たちはそもそも、使命が違っている。身体も心も違う。だから、飛び降りたときの結果も違うはずよ。」
「あなたの身体は、ようやく毒から解き放たれたばかり。下の毒の海には、とても耐えられない。」
「私はすでに瑠璃体になっているし、天目神鏡と生命識別器も持っている。」
「たとえ下りていっても、もしかしたら、何とかして戻ってこられるかもしれない。」
「もし父王が知ったとしても、きっと私の選択を支持してくれると思う。」
そう言い終えた途端、大悲は一切の迷いを断ち切るように、崖の縁から身を躍らせた。
「大悲!」