「須菩提よ、意においていかに。仏は色身を具足せるを以て見るべきや、いなや。」「い
ななり、世尊よ。如来はまさに色身を具足せるを以て見るべからず。何を以ての故に。如
来は色身を具足すというは、すなわち色身を具足するに非ずと説かれたればなり、これを
色身を具足すると名づくるなり。」「須菩提よ、意においていかに。如来は諸相を具足せ
るを以って見るべきや、いなや。」「いななり、世尊。如来はまさに、諸相を具足せるこ
とを以て見るべからず。何を以ての故に。如来は諸相を具足するというは、即ち具足に非
ずと説きたまふゆえに、これを諸相を具足すと名づく。」
この一品の大意は、仏陀が須菩提にこう問いかけられたことです。「須菩提よ、あなた
はどう思いますか。具足した色身によって、如来を見ることはできるでしょうか。」
須菩提は答えました。「世尊、それはできません。如来は具足した色身によって見るべ
きではありません。なぜなら、如来が『具足した色身』と言われるのは、如来に本当にそ
のような姿があるという意味ではなく、ただ世俗の習慣に従って仮に『色身を具足する』
と名づけているだけだからです。」
仏陀はさらに須菩提に問われました。「須菩提よ、どう思いますか。すべての相を具足
することによって、如来を見ることはできますか。」
須菩提は答えました。「世尊、それはできません。如来は『すべての相を具足すること』
によって見るべきではありません。なぜなら、如来が『諸相を具足する』と言われるのは、
本当にあらゆる相がすべてそろっているという意味ではなく、ただ世俗の習慣に従って仮
に『諸相を具足する』と名づけているだけだからです。」
この一品における仏の問いは、第五品でも同じような趣旨で問われています。原文は次
の通りです。「須菩提,於意云何。可以身相見如來不(須菩提よ、意において、いかに。
身相を以って、如来を見るべきやいなや)。」須菩提は答えました。「不可以。如來說身
相,即非身相(いななり。如来の説きたまえるところの身相、すなわち身相に非ざればな
り)。」この時の仏と須菩提の問答は、すべての「相」が虚妄であることを強調し、如来
を特定の一つの身相として執着してはならないということを明らかにするためのもので
した。
第十三品において、仏は須菩提に問われました。「於意云何,可以三十二相見如來不(意
に於いていかに。三十二相を以て、如来を見るべきや、いなや)。」須菩提は答えました。
「不也,世尊。如來說三十二相,即是非相,是名三十二相(いななり、世尊よ。如来の説
きたもう三十二相は、すなわちこれ相に非ず、これを三十二相と名づく)。」仏がこの一
品で須菩提と問答されたのは、弟子たちが仏の功徳の相(三十二相)に執着するのを心配
されたからです。如来の真の真空の境地に戻るためには、三十二相に執着していては戻れ
ない、ということを示されたのです。
いま仏がここで改めて問われる、「佛可以具足色身見不,可以具足諸相見不(仏は色身
を具足せるを以て見るべきや、いなや。如来は諸相を具足せるを以って見るべきや、いな
や)」とは、いったい何を強調しようとされているのでしょうか。
まず、「具足色身(ぐそくしきしん)」とは何かを考えてみましょう。この品の前の部
分で、仏は無量無辺の仏土世界と、衆生の心の虚妄について説かれました。そして続くこ
の品で、再び「具足色身」について触れられています。この「具足色身」について、人に
よって理解が異なります。ある人は、欲界の凡夫のような眼・耳・鼻・舌・身・意からな
る肉体のことだと考えます。またある人は、色界の衆生のような光の体(光化身)のこと
だと理解します。さらに、仏の三十二相八十随形好の紫磨金身(しまこんしん、黄金色の
輝きを持つ仏の身体。紫磨は最高品質の黄金を意味する)を指すと考える人もいれば、仏
の無量無辺の応化身(おうげしん、仏が衆生を救うために、その機縁に応じて現わした仮
の姿)だと解釈する人もいます。しかし、仏の説法は、三界六道の衆生の執着を破るため
のものです。ですから、あなたの心の中で執着している「如来の身体の相(イメージ)」
こそが、ここで言う「具足色身」なのです。同じように、「如来は『具足諸相(ぐそくし
ょそう)』によって見るべきではない」とも説かれています。この「具足諸相」について
も、人によって解釈が分かれます。ある人は、三千大千世界のすべての相のことだと理解
します。またある人は、五蘊(ごうん、人間の身心を構成する五つの要素)のことだと理
解します。仏教では、「自我」を「五蘊」とも呼びます。それは、色蘊(しきうん)・受
蘊(じゅううん)・想蘊(そううん)・行蘊(ぎょううん)・識蘊(しきうん)から成り
ます。色蘊は物質的な現象を指し、受・想・行・識の四つの蘊は精神的な現象を指します。
つまり、仏法における五蘊の概念は、万法(この世のすべての現象)を包括していると言
えるのです。
衆生は修行を始めたばかりの頃、色(しき、相や形があるもの) を見るときはそれが
空(くう) であると観じます。また、空を観じるときには、円満な色が現れるべきだと
考えがちです。そのため、仏は弟子たちの心にある「色空不二(しきくうふに、色と空は
別ではない)」という観念上(意識上)の相を打ち破ろうとされています。なぜなら、弟
子たちは「如来の空性」を頭の中で理解しようとするとき、次のように思い込む恐れがあ
るからです。「空とは単なる虚空ではない。また、すべてを否定したり捨てたりするもの
でもない。それなら、如来の空の境地と同時に現れるのは、円満な仏の姿か、あるいは一
粒の微塵に至るまで含む三千大千世界の全体であるはずだ。」しかし、色空不二に特別な
境地があると考えること自体が、すでに相に執着していることになるのです。
例えば、私がかつて修行中に経験したある境地について話します。自分が遍虚空・遍法
界(へんこくう・へんほうかい、あらゆる空間と世界に広がること) の光明となり、そ
の光の中に、無数の衆生の心や三千大千世界が一瞬ごとに生まれては消え、すべてが幻の
ように見える、という境地です。また別の時には、自分が突然ひとつの光の輪になり、そ
の中心に如如不動(にょにょふどう) で、美しく荘厳な紫磨金身(しまこんしん、黄金
色の仏の身体)の仏が座っているのを感じたこともあります。これらの境地は決して特別
なものではありません。観照力(かんしょうりょく、心を集中して対象をあるがままに観
察し、その本質を洞察する力) の非常に強い修行者であれば、「色空不二(しきくうふ
に)」という教えを深く理解することで、こうした境地に達することがあります。また、
過去世の修行の成果として自然に現れる場合もあります。さらに、これは修行者が実際に
体得した証量(しょうりょう) としての「良い境地」であり、特定の執着を打ち破るき
っかけとなることもあります。しかし、もし私がこれらの境地にとどまり、「これで色空
不二を悟った」「如来を見た」と思い込んだり、その境地そのものを如来の真空の境地だ
と執着するなら、それは間違いです。自性(じしょう) の真空には得も失もなく、如如
不動であり、もともとそのままのものです。どんな境地をもってしても、それを完全に表
すことはできません。「如来の真空の境地」とは、不思議に満ちているときには五眼六神
通(ごげんろくじんつう) がそなわり、平凡なときには食事や睡眠といった日常そのも
のです。しかし、そのどちらも「如来の真空」の境地なのです。
ですから、もし行者が頭の中で「これが如来の境地だ」と思い、そこに得失の心(とく
しつのこころ、得ることと失うことにこだわる心) があれば、それは間違いです。真空
とは、行者がすべての執着を捨て、どんな相にもこだわらなくなったときに、もともとそ
なわっているものです。そのとき行者は、すべてが虚妄であると悟ります。万法はすべて
空であり、すべて幻であると悟れば、行者は念が生じても、もうそれに執着しなくなりま
す。外の出来事に振り回されず、相に迷わされず、大自在(だいじざい、何ものにも束縛
されない完全な自由の境地) を得るのです。この状態を「如来」と呼びます。