善門を抜けても、まだ大悲の胸には魔宮の影が揺らめいていた。
彼女は一刻も気を緩めるまいと心に決め、足を止めずに先を急いだ。
どれほど歩いただろうか。
やがて、大悲の前に、無数の山洞と粗末な茅葺きの小屋が姿を現した。
金碧輝煌な魔世界と比べれば、ここはあまりにも質素で、静まり返っている。
そこは、自性山の内部に広がる「仏幻境(ぶつげんきょう)」であった。
それぞれの山洞や茅屋の前には、人々が群れをなし、何かを待つようにたむろしていた。
大悲は一つの山洞の前に集まっている人々のあいだに身を滑り込ませ、一人の顔立ちの整った若者に声をかけた。
「ここでは、何をしているのですか?」
「なんだ、新入りか。こんなことも知らないのかよ。」
若者は鼻で笑いながら答えた。
大悲の眼には、彼の口元から、うっすらと「傲慢」の毒が煙のように立ちのぼるのが見えた。
「見りゃ分かるだろ。この山には七つの洞窟があって、どれも『解毒』をしてくれるっていうんだ。」
「でもな、どの洞主も『うちの洞が一番だ』って言い張るから、俺たちはどこに入ればいいか分からなくなってるってわけさ。」
「じゃあ、あっちの茅屋は何のための場所なんですか?」
大悲が真剣に尋ねると、若者はますます見下したような目つきになった。
「そんなことも知らない? よくここまで来られたな。」
彼の口からは、さきほどより濃い傲慢の毒気が吐き出されていた。
「いいか、あそこもな、貪・瞋・痴・慢・疑の『五毒』を解くための場所なんだよ。」
「五毒くらい知ってるだろ? 俺たちはみんな、その毒にやられてる。」
「でも、あの草庵に入った連中は、一人も外へ出てこない。中で本当に解毒できてるのか、誰も知らないんだ。」
「でも、あっちの茅屋のまわりにも、人が大勢いますね。」
大悲がたずねると、若者は肩をすくめた。
「あれはな、中に入った奴らの家族や友達さ。」
「中の様子を聞きたくて、何年も何年も外で待ってるんだよ。」
そう言い捨てると、若者は人混みを押し分け、そばの洞窟の中へと急ぎ足で消えていった。
ちょうどそのときだった。
ある一軒の茅屋の前で、いっせいに歓声が上がった。
大悲が目を凝らして見ると、そこから一人の男が姿を現した。頭はつるりと剃られ、灰色の長い法衣をまとっている。
その瞬間、大悲の生命識別器が鋭く反応した。
天目神鏡には、懐かしい影がくっきりと映し出される。
「多智!」
大悲は胸を高鳴らせながら人波のほうへ駆け寄ったが、あまりの人の多さに押し戻され、外側から見守ることしかできなかった。
群衆の中から誰かが声を上げた。
「マスター、解毒はできたのですか?」
「どうか、マスターと呼ぶのはおやめください。」
多智は柔らかな声で答えた。
「私はまだ解毒できていません。この草庵そのものにも、毒を完全に断つ力はありません。」
「ですが、この十数年ここで過ごすうちに、一つの道理を悟りました。」
多智が「まだ解毒していない」と言うのを聞くと、何人かは肩を落として離れていった。
それでもなお、彼の話を聞こうと残る者もいた。
「私たちの身体の内側には、『我執(がしゅう)』と呼ばれるものがひそんでいます。」
「この我執が砕け散ったとき、私たちの毒は、その瞬間に消え去るのです。」
「その我執ってやつを、どうすれば壊せるんだ?」
誰かが尋ねた。
「この自性山には、一人の神人がおられます。」
「その御手にある宝器の中に、功徳の水が満ちたとき、神人は『普愛(ふあい)』の光を放たれる。」
「私たちがその水と光を受けることができれば、我執は砕け散るでしょう。」
「ただし、その功徳の水を満たすには、私たち一人一人が、絶えず善い心を起こし、善行を積み重ねていかなければなりません。」
「その神人には、会いに行けないのか?」
「行けません。」
「この山の頂へは、登るべき『道』が存在しないからです。」
「功徳の水が満ちたときには、神人のほうから、自然と姿をお現わしになるでしょう。」
「いつになるんだよ?」
「俺たちは今すぐにでも毒から逃れたいんだ。他の洞窟に行ったほうがマシだ。」
そう言って、取り巻いていた人々は四方へ散っていった。
ただ一人だけ、少年が多智のそばにぴったりと付いて離れなかった。
天目神鏡には、その少年が救援隊の一員であることがはっきりと映し出されていた。
大悲は胸の高鳴りを抑えきれず、多智のもとへ歩み寄ると、その袖をぎゅっとつかんで叫んだ。
「多智!」
その瞬間、多智の顔に、桃色の毒霧がふわりと立ちのぼった。
彼は反射的に大悲の手を振り払った。
少年が一歩前に出て、大悲と多智のあいだに割って入り、怒りを露わにして叫んだ。
「マスターに無礼を働くな、この小さな魔女め!」
大悲はハッとして心の中でつぶやいた。
「……彼らは、もう私を認識できなくなっている。」
「多智、私よ。大悲。」
「多宝如意王のこと、覚えている?」
「自分の救援任務を、まだ覚えている?」
「どうしてここに住んでいるの? ここは仏幻境よ。ここに住んでいても毒は解けない。万手万眼の神人を探さなければならないんだわ。」
多智の顔色は、桃色からしだいに蝋のような黄色へと変わっていった。
疑いの毒が、彼の全身をじわじわと蝕んでいる。
「お前は、どこから入ってきた?」
多智は厳しい声で問いただした。
「魔宮を通り抜けて、ここまで来たの。」
大悲が答えると――
「ははは……!」
多智は大声で笑い出した。
「女一人の身で、魔宮を抜けてきただと?」
「だが……お前の魔毒は、そう重くはなさそうだ。」
「それに、嘘をついているようにも見えない。」
「追及はしない。だが、すぐにここから立ち去りなさい。」
「さもなければ、あちらの洞主たちに知られたら、お前は打ち殺されるぞ。」
大悲はたまらず声を荒げた。
「多智、本当に自分の使命を忘れてしまったの?」
「じゃあ、あなたはどこから仏幻境に入ってきたの?」
「魔女め、失せろ!」
さきほどの少年が、再び怒りの声を上げた。
「多智、私は多宝如意王から授かった摩尼宝珠と、天目神鏡と、生命識別器を持って、あなたたちを探しに来たのよ。」
多智はいったん背を向けかけたが、その言葉を聞いた途端、足を止めて振り返った。
彼の目には、抑えきれない動揺が浮かんでいる。
「……女施主。」
「本当に、摩尼宝珠をお持ちなのですか?」
その声色は、さきほどとは打って変わって、深い敬意と柔らかさを帯びていた。
「ええ。」
大悲が静かにうなずくと、周囲から再び人々が集まり始めた。
多智は大悲の手をぐっとつかんだ。
「こちらへ。」
そう言って、彼女を人目のない山洞の一つの中へと引き入れた。
追いかけてこようとする者たちは、入口に立ちはだかった少年によって押しとどめられた。
洞窟の中で、多智は深く頭を下げた。
「女施主、先ほどは無礼を働いてしまいました。」
「少し前、魔王が差し向けた一群の魔女たちが、この仏幻境に入り込みましてね。」
「そのせいで、ここは魔毒で満ち、あたり一面が濁ってしまったのです。」
「もともと、どの山洞も解毒のための場所だったのですが、今では魔の子や魔の孫たちが姿を変えて洞窟に紛れ込み、洞内にまで魔毒が広がってしまいました。」
「旧い毒がまだ抜けぬうちに、新たな毒を浴びてしまう者が続出しています。」
「それが怖くて、私は山洞に入らず、ただ一人、草庵で暮らしていたのです。」
「あなたが『魔宮を抜けてきた』と言ったとき、正直、とても驚きました。」
「その話、詳しく聞かせていただけますか。」
大悲は、多力のこと、そして魔宮をどのようにして穿ち抜けてきたかを、順を追って語った。
多智はしばらく黙って聞いていたが、やがて大きく嘆息した。
「多力は、皆の解毒のために、あえて魔幻境の奥深くへと身を投じたのですね。」
「その発心と勇気は、ただただ頭が下がるばかりです。」
「魔王が、愛ゆえに一念を転じて善へ向かったというのも……信じがたいようでありながら、まったくあり得ない話とも言い切れません。」
「では、あなたたちはどこから仏幻境に入ってきたの?」
大悲が問うた。
「女施主、この山の反対側に、もう一つ入口があるのです。」
「ただし、それは『入るだけの門』であって、『出るための門』ではありません。」
「仏幻境に入った者が、解毒に失敗したまま外へ出ようとすれば、必ず魔幻境を通り抜けねばなりません。」
「そうして多くの者が、途中で魔毒に侵され、魔の子・魔の孫になってしまったのです。」
「だからここにいる人たちのほとんどは、長いことこの仏幻境に留まり続けています。」
「解毒の方法も見つからず、出る道も見いだせないままに。」
「じゃあ、多智、あなたはどうしてそんな姿になったの?」
大悲が尋ねると、多智は自分の丸めた頭を撫で、照れくさそうに笑った。
「ここにいる者の多くは、皆この姿です。」
「いわば『印(しるし)』のようなものでしてね。」
「他の人々は、我々をひと目見るだけで、『この者たちは解毒の方法を探し求めている者だ』と分かるのです。」
「我々は結婚もせず、肉食もせず、ただ解毒の道を求めて生きます。」
「その生き方は『神聖な職業』とみなされ、多くの人から敬われているのです。」
多智は少し声を潜めて続けた。
「洞窟の外に出たなら、誰かに尋ねられても、決して『魔宮を通ってきた』とは言わないでください。」
「これまで、魔宮から仏幻境へ入りながら、魔毒に侵されなかった者など一人もいません。」
「そんなことを言えば、誰もがあなたを魔女だと思い込み、ひどい目に遭わせるでしょう。」
「今、この仏幻境では、魔の子や魔の孫が紛れ込むことを何よりも恐れています。」
「入口という入口には、皆、護法の大力士たちが立って見張っています。」
「誰かがここに入るには、まずどこかの洞主と知り合いであることが必要です。」
「洞主自らに連れられて入ってくれば、ようやく『この者は信頼できる』と認めてもらえる仕組みなのです。」
「私自身、仏幻境の中では、それほど大きな影響力を持っているわけではありません。」
「けれど、一人だけ親しくしている洞主がいます。」
「その方なら、あなたのことを守ってくださるでしょう。」
大悲は、思わず首を振った。
「多智、私は仏幻境の中で守られるために来たんじゃない。」
「一刻も早く、すべての救援隊員を見つけ出して、あなたたちをここから連れ出したいの。」
「そうだった……。」
多智は自分の後頭部を軽く叩いた。
「また危うく、自分の使命を忘れてしまうところでした。」
「私たち救援隊員は、皆すでに毒に侵されています。」
「故郷への道も、とうに見失ってしまった。」
「たとえ今あなたが我々を連れて行こうとしても、このままの状態では、ほとんど誰も歩き出すことすらできないでしょう。」
「元々、救援隊は三千人でこの星に来ました。」
「今、仏幻境に住んでいるのは、約千五百人。」
「毒が重くて、まだ五毒幻境に留まっている者が千人ほど。」
「さらに約五百人が、魔幻境に住みついています。」
「こうして比べてみれば、私の毒はまだ軽いほうなのです。」
「それでも、私は仏幻境を一歩出た途端、毒が全身を駆け巡り、身も心も引き裂かれるような苦しみに襲われます。」
「頭は朦朧とし、東西南北の区別もつかなくなる。」
「ましてや、他の者たちはなおさらでしょう。」
「だから、あなたが私たちを連れ出したいのであれば、何よりも先に『解毒』が必要です。」
「解毒のためには、どうしても万手万眼の神人を見つけ出さなければならない。」
「私は仏幻境に入ってから、自性山の頂に至る道を探し続けてきました。」
「しかし、やがて気づいたのです。」
「――この山には、上へと続く道など、もともと存在しないのだと。」
多智はそこまで言うと、力なくうなだれた。
「多智、摩尼珠が道を照らしてくれることを、忘れてしまったの?」
大悲はそう言いながら、胸の中の摩尼宝珠を回転させ始めた。
彼女は心の中で静かに念じた。
「摩尼珠よ、自性山の頂へ向かう道を、どうか照らし出して。」
その瞬間、摩尼珠は万道の金色の光を放った。
やがて、その光をふっと収め、再び放ち、また収める――そうした動きを数度繰り返した後、摩尼珠は鋭い雷光のような一本の光を放ち、まっすぐ洞窟の天井へと走らせた。
「どこに?」
多智はきょろきょろとあたりを見回したが、まったく要領を得ていなかった。
摩尼珠の強烈な光が照らし出している道を、彼には見ることができなかったのだ。
大悲は、毒に覆われた多智の眼差しを見つめ、胸が締めつけられるように痛んだ。
「多智、摩尼珠はもう私の心脈と一つになっていて、外へ取り出すことはできないの。」
「でも、天目神鏡を使えば、私には摩尼珠の照らす道がはっきり見える。」
「だから、あなたは私の後についてきてくれればいい。」
「ただ、地面から洞の天井までのあいだには、道がまったくない。」
「洞窟はこんなに高いし……どこかで雲を登るような長い梯子を手に入れなきゃ。」
大悲は焦りを押さえきれずに言った。
多智はそれを聞いて、ふっと肩の力を抜き、笑みを浮かべた。
「大悲、ここ仏幻境ではね、ほとんどすべての洞主が、そういう梯子を一つは持っているんだ。」
そう言いながら、多智は洞窟の外へ出て行った。
ほどなくして、彼は精巧に作られた折り畳み式の梯子を担いで戻ってきた。
梯子は必要に応じて伸ばすことができ、最大まで引き伸ばすと、洞の天井に開いた門に届いてなお余りが出るほどの長さがあった。
大悲は、その作りの巧みさと、持ち運びの便利さに感心しながら、多智と並んで梯子を天井までかけ、すぐさま二人でその梯子を登り始めた。
摩尼珠の光が照らし出した門をくぐると、そこには、遥か彼方まで伸びる一本の長い通路が続いていた。
通路の内側では、さまざまな色の光が、妖しくまた美しく瞬き、揺れ動いている。
大悲と多智は足元に気を配りながら、その中を一歩一歩進んでいった。
大悲はその光を見て、ふいに魔幻境で見た光景を思い出した。
あまりにもよく似ていたのだ。
魔王のこと、多力のことが、彼女の胸にわき上がった、その刹那――
「ははははは……!」
魔王の笑い声が、空の彼方から響き渡った。
次の瞬間、魔王の姿が二人の頭上の空中に現れ、大悲を鋭く睨みつけた。
「大悲、お前は道を誤った。」
「ここは魔幻境だ。お前の力で、この私の手のひらから逃れられると思うな。」
「宝珠をよこせ!」
そのすぐ近くに、多力の姿も現れた。
彼女の顔は真っ青で、大悲に向かって叫んだ。
「早く行って!」
言い終えるか終えないかのうちに、多力は口から真っ赤な血を吐き、そのまま地に崩れ落ちた。
「麗妃は、お前のせいで死んだ!」
「命を返せ!」
凶相をむき出しにした魔王が、大悲めがけて飛びかかってきた。
大悲は恐怖のあまり、後ずさりするばかりだった。
「大悲!」
多智の声が響いた。
「ここに漂う光は、五毒に、魔幻境と仏幻境の毒が加わって生じたものだ。」
「ここは、毒気がいっそう濃い。」
「心に念がひとつでも動けば、その念がとらえたものを、光はすぐに形として生み出してしまう。」
「だから、どんなものを心に思い浮かべてもいけないんだ。」
その言葉とともに、魔王の姿はふっと消え去った。
代わりに、空中には、無数の手と無数の眼を持つ一人の神人の姿が現れた。
大悲はそれを見るなり、喜びのあまり叫びそうになった。
「やっと……やっとあなたを見つけたわ!」
「大悲、落ち着いて。」
多智が言った。
「それもまた偽物だ。」
「幻境だよ。あなたの心の中から生まれた影にすぎない。」
「でも、私はさっき、何も考えていなかったはず……。」
大悲は焦りながら言い返した。
「たしかに、今この瞬間には、何も思っていなかったかもしれない。」
「けれど、あなたはずっと心の奥で、あの神人を探し求めていた。」
「その『執着』が形をとって現れたんだ。」
大悲が一瞬、はっとして我に返ると、神人の姿も霧のように消えた。
そのとき、多智がふらりと大悲のほうへ寄りかかってきた。
「大悲……。」
「身体に力が入らない……もう歩けそうにない……。」
「雑念はまったくないつもりなんだけど、僕の毒は君より重い……。」
「眠くて、眠くてたまらない……頭がぼんやりして……。」
言葉を言い終える前に、多智はすでに大悲の肩にもたれかかるようにして、その場で深い眠りに落ちてしまった。
大悲は、多智の言っていることが正しいと知っていた。
自分自身も、少しずつ意識がかすみ、身体がふわふわと頼りなくなっていくのを感じていた。
「ここで眠り込むわけにはいかない。」
そう思った大悲の心に、父王から授かった解毒丹のことが浮かんだ。
彼女がそう念じた瞬間、父王の姿が空中に現れた。
大悲は、これも幻影にすぎないことを知っていた。
彼女は父の姿に目を向けることなく、黙って解毒丹を取り出し、その半分を割って多智の口に含ませた。
「大悲、お前は急いで戻らなければならない。」
「すでに六日以上過ぎているのだ。」
父王の声がそう告げた瞬間、大悲は、これが幻であると知りながらも、心の中に鋭い焦りが突き上がってくるのを感じた。
その隙を逃さず、五毒はたちまち大悲の全身へと広がっていった。
彼女は慌てて、残り半分の解毒丹を自分の口へ押し込んだ。
やがて、多智はゆっくりと目を覚まし、意識を取り戻した。
大悲の頭もすっきりと澄みわたり、全身が軽くなっていた。
その後の道のりでは、二人とも一言も発せず、息を整え、心をしっかりと定めて歩き続けた。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
ようやく、多智と大悲の目の前に、もう一つの出口が見えてきたのであった。