初めての座禅で、私は半跏趺坐とし、両手は気軽に膝の上に置いて、遊び半分の気持ちだった。目を閉じて数秒後、私の心身は忽然空霊な状態になり、目の前に次々と美しい光景が現れた。山水や景物は極めて美しかった。孔雀が目の前で尾を広げ、蛇がおとなしく膝の下を行き来していた。その時、ふと耳元に波が海岸を打ち寄せる音が響いた。海潮の音だんだんと聞こえ来て、風のうなり声、人の助けを求める声が混ざっていた。気が付くと私が島の高い岩の上に座っていた。私は一輪蓮の花を海に投げ入れた。海面には木の舟が波の中で転覆しそうになっていた。その蓮の花が舟へと漂い寄り、舟の底を支えた。瞬く間に風平浪静。……
私は突然その境地から抜け出し、目を開けると、傍らの子供がおしっこをして泣いていた。私は慌てておむつを替え、時計を見るともうすぐ12時だった。夫が昼に帰って食事をするので、野菜も洗わなければならない。子供をあやしながら忙しく食事の支度をし、座禅で体験した境地のことを考える余裕はまったくなかった。翌日の午後、子供がまた眠りにつき、私もうとうとと横になっていた。ふと昨日の座禅で見た光景が思い浮かび、心の中は心地よかった。座禅はこんなに面白いものなのだ。目を閉じるだけで、夢のように美しい光景が次々と現れ、音も物語の筋書きまである。(後になって知ったことだが、座禅をすれば誰もがこうした境地を体験できるわけではない)。これを思い出すと、また遊び心が湧いてきた。今日もやってみよう、何が見えるだろう。そこですぐ起き上がり、昨日と同じようにベッドの上に座った。
私は今回の境地に、いっそう嬉しさを覚えた。数分後、私は雲の上に座っていることに気づいた。蓮華座が現れ、自分に千手千眼が生まれ出た。続いて自身の姿が次々と変わっていく。やがて四臂の姿になり、頭の上にさらに頭が生え、肩からも頭が現れた。雲の上には袈裟を身にまとった多くの僧侶が見え、どこからともなく念仏の声、木魚を叩く音が聞こえてきた。目の前の景色は絶えず移り変わり、言葉に表せないほどだった……見て楽しんでいると、突然泣き声によって私は目を覚まされた。傍らの子供が目を覚ましたのだ。時計を見ると、既に二時間以上座っていたのに、体感では十数分ほどしか経っていなかった。
子供をあやし落ち着かせてから、また晩ご飯の支度に追われた。二回目の座禅の楽しさに、私は少し名残惜しさを感じた。この二日座禅をしてから、元気がはるかに増し、明らかに心身とも爽やかになった。
ここで当時の私の家庭状況を簡単に紹介したい。夫は交通警察官である。彼は幼い頃に父を亡くし、家計は貧しかった。母親が質素倹約して彼を大学まで行かせた後、生活面でこれ以上援助することはできなくなった。夫は私より数年早く社会に出て働いていたが、結婚時の新居は彼の職場の独身寮に過ぎなかった。私は高校卒業後、河北の美術学院で中国画を学び、その後地元の新華書店に勤めた。勤めて一年余りで妊娠し、休暇を取った。夫の仕事は多忙で、昼と夜に帰宅して食事をし、家事を少し手伝う以外、子供が生まれてから私たちが言葉を交わす時間はほとんどなくなった。子供ができてから、生活はひっ迫していた。
出産後、私の体はとても悪くなり、骨盤炎や胆嚢炎が頻繁に再発した。全身の骨が疼き、夜には痛くて泣きたくなる時もあった。家事に全精力を注ぐほかは、ただ疲れ、眠く、もっと眠りたいと感じていた。家にいる時間が長くなり、友人たちとの付き合いも少なくなった。時は少しずつ過ぎていき、日々は穏やかで、退屈だとも思わず、悲しくも喜びもなかった。その頃、私は物事を考える精力も時間もあまり持てなかった。かつて画家や詩人になりたいという夢は、塩・醤油・味噌・酢といった日々の食事の支度や子供のおむつによって薄れていった。時折、少し退屈だと感じることもあった。読書をし、当時の日記には自分の生活を味のない白湯に例えて書いていた。
息子の成長による楽しさや好奇心だけでは私の心は満たされなくなり、次第に生活に対してもっと多くのものを探し求めるようになり、何か生活に変化が起きればと常に願っていた。ちょうどこのような心境の中で、この二回の座禅体験は私を大いに喜ばせた。座禅はこれほど素晴らしいもので、私の生活の空白を一気に埋めてくれた。時間さえあれば、ほとんど毎日座りたくなり、家事の多くを後回しにして、時間を作り、座禅をしていた。当時の私は、この行為を修行と結びつけて考えてはおらず、ただ座ることが好きだっただけである。
日々は速く過ぎ去り、あっという間に数ヶ月が経った。私は座禅にますます興味を持つようになった。座禅を行うたびに境地が現れ、それはいずれも非常に美しく不思議で、まるで神話の世界に生きているかのようだった。また体も日に日に良くなり、顔色は血色を帯び、骨の痛みは消え、睡眠時間も減り、精力は大いに充実した……この状態が数ヶ月続いたある日の午後、子供が眠ったので、私はいつものように急いで座についた。数分後、私は自分自身が忽然と消えたように感じた。その時、空から一つの声が響いてきた。「あなたは某々某の第八十代の生まれ変わりである。あなたの使命は仏法を弘め、衆生を済度することだ。あなたの劫の数は尽きておらず、五年で解脱できる……」「あなたは誰ですか」と私は問うた。「ハハハ……」と朗らかな笑い声が響いた後、高さ二メートル余りの金色に輝く札が私の前に落ちてきた。札には梵文が書かれていると私には思えたが、私の視線が届くと梵文は自ら漢字へと変わり、そこには私の名前、生年月日、そして今生で経験するいくつかの出来事が記されていた。その後札は消え、私は映画を見るように、業を受けてこの世に生まれてくる一連の過程を見た。これらを見終わると、私は出定した。その時の私は夢から覚めたような心境で、多くのことを理解したかのようだった。しかし目の前の子供、家を見ると、何も理解できていないようでもあった。内心は激しく昂奮し、何かを見つけたようだが言葉にはできない。まさに二十数年、心の奥でずっと渇望し探し求めていたものに触れたかのようだった。
翌日は一日中友人が訪ねて来て、座禅をする時間がなかった。夜の12時過ぎ、子供も夫も眠りについた。私は腰が痛く体はくたくただったが、内心の衝動を抑えきれなかった。この頃座禅は私にとって毎日欠かせないものとなり、顔を洗い、歯を磨くような生活習慣になっていた。一日座らないと、心身ともに違和感を覚えた。私は起き上がって座禅をした。この時点では、座禅の中に現れる境地を穏やかに眺められるようになっており、最初の頃のように好奇心に駆られ、興奮して境地の中から出たくないと遊ぶようなことはなくなっていた。座禅を始めて十分ほど経つと、私は入定した。目の前に突然巨大な経典が現れ、経典は素早く中間のページへとめくられた。四つの文字が経文の中から浮かび上がるように大きく映し出され、赤色に変わり、黒い文字の中で鮮やかに目立った。【観心即仏】
この四つの文字がしばらく私の前に留まった後、経典は消え去った。私は鳥のさえずりと花の香りに満ちた谷の中に入り込んでいることに気づいた。曲がりくねった小道が谷の奥へと続いていた。入り口には若い僧侶が座り、木魚を叩きながら読経していた。私は近づいて一礼し、口を開いて尋ねた。「和尚さん、観心即仏とはどういう意味ですか」。彼は多くのことを語ってくれたようだが、私は聞けば聞くほど混乱し、どうしても理解できなかった。その時、彼は木魚を片付け立ち上がると、「ついてきなさい」と言った。私は彼に従って谷の奥へ進み、険しい崖の下で立ち止まった。彼は両手を合わせ、崖のほうへ恭しく告げた。「師匠、彼女を連れて参りました」。それから彼はそのまま立ち去り、私はその場に呆然と立っていた。すると崖から声が響いてきた。「子よ、長い間待っていた」。声のする方を見上げると、崖の上に老僧が立っていた。体が大きく丸々としており、僧侶の灰色の法衣をまとい、首には大きな檀木の数珠をかけていた。いつの間にか私が彼の目の前に立っていたのか分からなかった。彼は慈しみに満ちた穏やかな表情で、口調も落ち着いており、私はすぐに信頼と親しみ、寄りかかりたいという感覚を覚えた。
彼は「観心即仏」の意味について語り始めた。私は彼の言葉の原文は思い出せないが、定の中での私たちのやり取りは心の感応によるものだったように思える。彼が一言語れば、私の心の中には彼の伝えようとする全ての意味が瞬時に理解でき、それは単なる言葉で言い表せるものではなかった。彼は私の師であると告げ、明日から自らの法門である「大光明法八部」を伝授すると言った。私は聞いて大変嬉しくなり、彼の名前は何か、どなたなのかと尋ねた。彼はほんのり笑って言った。「私の名前を知る必要はない。天竺老人と呼べばよい」。その日、彼は私をその地の山水のあちこちへ案内し、多くの仏教の知識と道理を語ってくれた。
出定した後も、彼の温かいオーラが依然として私の周りを包んでいるのを感じることができた。私の心は彼に対し、限りなく慕う心を抱くようになった。長年離ればなれになっていた子供が母親を見つけたかのように、私は興奮し、不思議な気持ちになった。翌日、私は子供が早く眠りにつくことを願っていた。誠心が通じたのか、子供は午前10時過ぎに眠り込んだ。私は興奮し、すぐさま座禅を始めた。
師匠が現れ、厳かな面持ちで座蒲団に座っていた。私は自分たちがどこに座っているのか分からなかったが、そこはひっそりと静まり返り、ただ時折水の流れる音が聞こえるだけだった。私は彼の向かい側に座り、彼は大光明法の第一歩である明心見性を伝授し始めた。この法門の起源、修め方、そして成就した後の心と身体の気脈の変化について語ってくれた。彼の話が終わると、私は教えに従って観想と修証に入った。禅定の中では三十分ほど経過したように感じ、私は第一歩の功法の修証をやり遂げた。師匠は私を褒めてくれ、私は大変嬉しかった。
毎日一歩ずつ学び、こうして八日間連続して座禅を続けた私は、師匠の法門をすべて学び終えた。第二部から第六部までの間に五つの神通を学び、第七部と第八部では主に術数、星象、風水、呪術などの知識を学んだ。師匠は私の様子を大変気に入ってくれ、ほぼ毎回のように私を褒めてくれた。彼はいつも私を「子よ」と呼び、私も彼の前ではまるで数歳の幼い子供のように感じていた。師匠の称賛によって修行への自信は大いに高まり、ますます師匠を慕うようになった。
の頃は座禅をしていなくても、師匠がどこにでもいつもそばにいるように感じられた。私はいつも、馴染みのある温かく、見守られているような雰囲気の中で暮らしていた。心の中は、初恋の少女のように甘く、また母の胸に甘えたいと望む子供のようだった。私は日々、やらなければならない用事のほかは、ほとんどすべての時間を捻出して座禅に充て、切実に師匠に会いたいと願っていた。当時は定に入ってこそ、彼の姿を見、声を聞くことができたため、家事はますますおろそかになった。部屋を片付ける時間もなく、ご飯を作ることさえ忘れてしまうことも多かった。世の中のあらゆる出来事には興味が持てなくなり、ただ入定して師匠と語り合える時間があればと願うばかりだった。
もちろん、最初に私に対して不満を抱いたのは夫だった。彼はまず、突然冷遇されたように感じた。私たちは結婚して2年も立っておらず、彼は私より一歳年上だ。私は部屋を片付けないだけでなく、子供の世話もおろそかになり、子供は汚れたままになっていた。それに、性生活にも興味が持てなくなった。当時の私は、修行のために禁欲しなければならないと考えていたわけではなく、ただ突然そうしたくなくなっただけだ。それから私は菜食を食べるようになり、肉を見ると吐き気を覚え、肉類を口にすると軽い下痢を起こすようになった。夫は毎食青菜ばかりを食べ、夜になって子供が眠りにつくと、私は南を向いて座る。彼は次第に苛立ち、苦しみ、落胆するようになった。私の心の中には夫に対する申し訳なさがあふれていたが、どうすればよいのか分からなかった。修行への願いが私の人生のすべてを占めており、それを諦めることはできず、私には逃げ道がなかった。私は大きな誘惑に引き寄せられたようで、一度足を踏み入れると自分の意思ではどうにもならなかった。背後から強大な力に押され、一歩も後退することができなかった。
私は機会を見つけ、座禅と修行の体験を夫に話した。どうか理解し、信じてほしいと心から願っていた。しかし彼は笑って言った。「神話の話でもしているのか。私は子供ではない。私だけがそう思うのではない。こんな話を外で言っても誰が信じるだろう。今後、他人には絶対にこのようなことを話してはいけない」。私は大きくがっかりし、夫との対話は失敗したと分かった。
禅定の中で師匠から伝授された功法をすぐに学び終えた。その後の座禅の日々において、私は師匠の教えた法門を思い返したり、改めて修証したりはしなかった。師匠は私に告げ始めた。「禅定の中に現れるいかなる境地も見てはならない」。私の境地の中には、時折恐ろしい光景が現れるようになった。例えば私が一番恐れていた蜘蛛が、定の中で全身に這いまわっているのがよく見えた。恐れれば恐れるほど蜘蛛は大きくなっていく。「どうか頭に這い上がらないでほしい」と思えば、瞬く間に頭や顔一面に巨大な蜘蛛が覆いかぶさった。そんな時、いつも『金剛経』の言葉が思い浮かんだ。「一切有為法は、露の如く、また電の如し。夢幻泡影の如し、かくの如く観ずべし」。こうして心を緩め、経文の言葉に思いを向けると、全身の蜘蛛はたちまち跡形もなく消え去った。
しばらくすると、禅定の中に恐ろしい光景が現れようと、美しい光景が現れようと、私はそれらを聞こえないものとして、自分とは無関係なものとして扱えるようになった。こうして境地は次第に減っていったが、代わりに頭の中の雑念が増えてきた。かえって定に入れず、あれこれと考えが巡ってしまうこともあった。師匠は言った。「雑念を気にするな。雑念も境地と同じで、水の流れのようにそばを過ぎ去らせなさい。ただ静かに眺めていればよい。雑念の善悪、良し悪し、美醜を分別せず、ただ観るだけでよい」。こうして私は傍観者となった。(この頃は定に入らなくても、いつでも師匠の姿を見ることができ、師匠と語り合うことができた)。
修証が日増しに進むにつれ、家庭内の葛藤も日増しに激化し、夫との間に小さな摩擦が生じるようになった。その頃私たちは新居に引っ越しており、実家から経済的な支援を受けたことで生活環境は大きく改善され、子育てのために家政婦を雇ってもいた。夫の私に対する不満は次第に高まっていった。私はあの頃の自分が生活面でうまくできていないことを自覚していた。精いっぱい努力はしていたものの、家庭や夫のためにこれ以上尽くす余裕はなかった。何よりも夫は、私の心が家にも、彼や子供にも向いていないことをはっきりと感じ取っていた。私は家を愛していると思っていたが、自分の心がどこにあるのか分からなかった。さらに悪いことに私の気性はますます荒くなっていた。夫のちょっとした皮肉や嫌味に対しては、禅定の中で境地を観るように、そのまま過ぎ去らせればよいと頭では考えていた。だが思うだけでは実行するのは難しかった。以前よりも忍耐力がなくなり、苛立ちやすく、怒りも激しくなった。夫の瞳から、彼の疑いをはっきりと読み取った。「どうして修道や仏道を学ぶとこんな様子になるのか。きっと走火入魔してしまったのだ」と。私は理屈をつけて思った。修道には見せるための決まった姿などない。これが生きた道であり、これが私の姿なのだと。それが言い逃れであることは自分でも分かっていた。私の怒りは智慧の現れではなく、習気ーー貪瞋痴慢疑の爆発だった。
師匠は私に忍辱戒を守るよう告げた。私は苦しみながら師匠に問いかけた。どうして私の話を信じてくれない人がいるのか。その中には善良で仏を信じ、根性のある人もいるのに。師匠は笑って私を慰めた。「あなたはまた妄語を打ってはいないか。妄語を打った果報がこういうものなのだ」。私はよく考えてみた。過去に妄語を打ったことがなかったとは断言できず、ただこれからはもう妄語を打たないことを願った。私は師匠に忍辱戒の守り方を尋ねた。師匠は言った。「物事に遭ったら正誤を争わず、生活の中の善悪、美醜に執着してはならない。今起きているすべてのことは、あなたが受けねばならず、受けるべきものである。夫と口論してはならないだけでなく、嗔恚の心を起こしてはいけない。これが今のあなたが守戒する上でなすべきことだ。」
私はすぐに師匠の言葉に従い、夫と口論しないようにした。夫が何を言っても、心を穏やかに保とうと努め、ただ黙って聞き、右の耳から入って左の耳から出すようにした。そうは言っても心の中には波立ちが生まれ、屈辱、怒り、嗔恚が私の心を苛み、目には涙があふれた。
夫は落胆と腹立ちから、私と子供への関心を失い始めた。時には酒を飲んで夜遅く帰り、たまには一晩家に帰らないこともあった……
私の修持は依然として進んでいたが、情緒は極めて不安定で、心のバランスが崩れることが多かった。可愛い子供を見、この家を眺めては、修道を諦めてしまおうと思うこともあった。修行のために今あるすべてを失う必要があるのだろうか。師匠に対する尊敬の念は変わらなかったが、以前のような慕う気持ちは失われていた。師匠は相変わらず私を気にかけてくれ、大きな道理を説くことはせず、時には街へ出かけて新しい服を買って心を整えるよう勧めてくれた。師匠はこう言った。「この時期は、ただ心のバランスを保てれば、どんな方法も最善の法門である。」
この時期、師匠がいてくれたものの、坐禅に就いていない時も戸惑い、迷い、屈辱、苦しみ、疲労、喪失感に襲われた。私は何度も自分自身を見つめ直し、なぜ修行するのか、一体何を目指しているのかと自問するようになった。以前よりもはっきりと自分の奥に潜む欲望や習気が見え、自分は他の人と何も変わらないと感じ、むしろ修めれば修めるほど後退しているように思えた。
私には智慧など少しもなく、普段持っていた聡明ささえ失ったようだった。ぼんやりとして人生の方向がますます見えなくなり、毎日何をしているのか分からなくなった。成仏という言葉は私にとって曖昧な概念に過ぎなくなった。仏とは何なのか、ますます分からなくなった。私はただ毎日師匠の言うことを聞き、その通りに実行しているだけで、心の中に自分自身の考えはもう何もなかった。自分は愚かで鈍いと感じた。それでも師匠に対しては終始信頼と尊敬の念を抱き、疑ったことは一度もなかった。師匠はこの頃私に教えたのは、ただ心の平穏を保つよう努めること、そして忍辱戒を守ることだった。
持戒は本当に苦しいことだと思う。言葉での反論を抑えることはできても、心に少しも嗔恚の念を起こさないようにするのはとても難しい。それでも私は全力を尽くして取り組んだ。一度できるようになれば、二度もできるはずだと考えた。この気づきは坐禅を始めた頃の体験から得たものだ。定に入れると心地よかった。
やがて、修証を始めた頃はすぐ定に入れていたのは、師匠の加護に依るものだと思うようになった。それに、当時は心が和らいでおり、理障も何もなかった。後に坐禅を重大なことと捉えるようになってからは、かえって心が静まらなくなった。修持の中で雑念も増え、四十分間(私はずっと片足結跏趺坐である)坐っているだけで両脚が痛みだした。師匠は私に下座してはならないと告げ、一秒一秒耐えるようにと。師匠は傍らでたえず励まし、あと一秒耐えよう、もう一秒耐えようと繰り返してくれた……痛みは足首から股部へと移り、この二箇所を循環し、時には痛みで汗が吹き出した……そして痛みがふっと消え去った!瞬く間に心地よさが両脚から全身に満ち渡った。師匠は言った。「こう何度か耐えれば痛みは来なくなる、ただし痺れることはある」。私はこの体験を持戒に活かそうと思った。怒りが湧きそうになるたび、あと少し耐えよう、一秒一秒耐え抜こうと念じるのだ。
しかし、私たちに物事の本当の姿を見抜く智慧がなく、最後にはそれを受け入れて解決することができなければ、ただ我慢しているだけでは一時的なものにすぎない。そして、人の我慢には必ず限界がある。あるところまで我慢すると、それまでのすべての我慢が一瞬にして爆発し、まるでぶどうの房を振るように、過去に自分を苦しめ、我慢させてきたことが一気によみがえり、すべてまとめて清算しようとするのである。
そのときの私は、まさにそんな状態だった。怒りが突然爆発し、まるで気が狂ったようだった。私は師匠から教えられたことをすっかり忘れ、普段から両親に言われていたことさえ、すべて頭から消えていた。汚い言葉を口にし、家の中の物までいくつか壊してしまった。夫は、そんな私の行動をまったく相手にしなかった。この「傑作」をやり終えると、私はようやく静かになり、自分をこれでもかというほど責めた。もう師匠に顔向けできないと思い、師匠とも話すことができなかった。師匠は私を責めることなく、ただ慰めるように言った。「過ぎたことは、もう考えなくていい。過去のことですでに間違いを犯してしまったのに、それをいつまでも心に引っかけていたら、間違いに間違いを重ねることになる。子よ、あなたの体の中には、とても大きなエネルギーがある。ここまで修証してきて、気脈もすでに転化し始めている。自分の起心動念を自分でコントロールできないのは、とても危険なことだ。これからは、毎年ある程度の期間を取って俗世を離れ、山に入って専門的に修証し、気脈の転化を完成させなさい。具体的な時期と場所については、その時になったら私から知らせる。」
それから間もなく、師匠から、某月某日に普陀山へ行き、そこで二十日余り滞在した後、すぐに戻るようにとの知らせが届いた。師匠からの知らせを受けて、私は少し気になることがあった。まず、こんなに長い間家を離れるとなると、夫はきっと賛成してくれないだろうと思った。子どもはもうすぐ二歳になるとはいえ、まだ小さい。子どもを一人の若いベビーシッターに預けるのも、私はどうしても心配だった。もう一つは、お金の問題である。普陀山は山西からかなり遠く、師匠からは飛行機で行くようにと言われていた。そのためにはお金が必要だったが、私にはそのお金がまったくなかった。
ここで、どうしても弟のことを話しておきたい。私たちは四人きょうだいで、私は三番目である。母は教師、父は普通の国家公務員で、姉と兄も市役所に勤める公務員である。弟は医学院で中医学を専攻して卒業し、その後、製薬工場に配属された。しかし、半年ほどで仕事を辞め、市内に診療所を開いた。弟は穏やかな性格で、人への接し方もとてもよかった。特に名が知られていたわけではないが、それでも弟の診療所には多くの患者が通っていた。自分で仕事をするようになってからは、時間にもかなり余裕ができた。その頃、弟は余暇に少し硬気功を練習したり、太極拳をしたり、仏典を読んだり、禅定の修行をしたりしていた。私は坐禅を始めてから現れるようになったさまざまな境地や、一連の不思議な出来事について弟に話した。ところが、弟は私が見た境地そのものにはあまり興味を示さず、ただ静かにこう尋ねた。「その師匠は、あなたにどんな道理を説いたの?」私は、心の中では分かっているのだが、それをうまく言葉にすることができないと答えた。すると弟は、私が感じ取ったことを簡単に言葉にしてみるように言った。私が話し終えると、弟はこう言った。「僕も仏典を完全に理解しているわけではないけれど、見たところ、その人の教えは仏典の意味と矛盾していない。おそらく魔の変化したものではないと思う。」私は心の中で、そもそも魔が和尚に化けて私をだますなんて考えたこともなかった。それに、魔とはどんな姿をしていて、仏とはどんな姿をしているのだろう。私は当時、仏典をあまり読んでいなかったので、そこまで考えることもなかった。しかし、弟がそう言ってくれたことで、私は心の中に一本の支えができたような気がした。少なくとも弟は、私の話を本当のこととして信じてくれたし、真剣に考えてくれた。それからの修証の過程で、私はよく弟のところへ行って話をするようになった。ときには、禅定の中で起きたことを話していると、私が少し話しただけで、弟がその続きを言い当てることもあった。それにはとても驚かされた。弟は「きっとそういうことなんだと思う」と言った。しかし、弟自身が坐禅をしているときには、何も見えなかった。真っ暗闇で、光さえまったく見えない。それなのに、弟には私の境地が分かっていた。
弟はよく「どうして女の人は、そんなに小さなことにこだわるんだ」と言っていた。私は「何年も坐禅をしているのに、枯れ木みたいで、少しも生気がないじゃない」と言い返していた。
もちろん今回師匠から普陀山へ行くように言われて、まず相談したのは弟である。弟はすぐに方法を考えてくれた。夫の説得は弟がする。子どもの昼間の面倒は、母と姉に交代で見てもらう。夜は、小姑の職場が家から近いし、まだ結婚していないから、小姑に夜は家に泊まって子どもの面倒を見てもらおう。お金のことは、彼が新婚の家を売って、彼と弟の嫁はこれまでどおり両親と一緒に住む。それから、彼が私に付き添って普陀山へ行く。私はほかにもっといい方法も思いつかなかったので、仕方なく、それぞれ動き始めた。姉がすぐに快く賛成してくれたほかは、誰一人も私たちの考えに賛成してくれる人はいなかった。両親も、私が修行すること自体には反対ではなかったが、家で斎食して、仏様をお祀りして、経典を読めばそれで十分ではないか。どうしてわざわざ家を離れて修行する必要があるのかと考えていた。母は、私が修行することで家庭が壊れてしまうのではないかと心配していた。それでも、私と弟の決意は固く、何度も家族に分かってもらおうと話をした。出発の日が近づくにつれて、家もすでに売れて、もう後戻りできないところまで来ていた。出発前日の夜、夫は酔っ払ったような状態で、かなり遅く帰ってきた。翌朝、私たちが出発しようとしたとき、夫が突然、職場から戻ってきた。夫は何も言わず、ただ私のスーツケースを階下まで運んでくれた。その目には涙が浮かんでいた。私は胸の中が複雑な思いでいっぱいになった。両親に別れの挨拶をして、私はついに、初めて山へ巡礼の旅――観音菩薩の道場普陀山へ出た。
私たちは飛行機でまず寧波へ行き、寧波で一泊してから船で普陀山へ向かった。普陀山に着くと、海辺に近いホテルに泊まった。禅定の中で私は何度も南海を見て、白衣をまとった観音菩薩様を見たことがあった。そして、耳をつんざくような海潮の音を聞いたこともあった。今日はついに、自ら南海(注:実際の地理的位置は東海)の海辺までやって来た。果てしなく広がる海を眺め、潮の満ち引く音を聞きながら、心が広々と静かになっていき、ここ数日ずっと抱えていた焦りや不安、疲れが、すべて海に洗い流されていった。
翌日、私たちは洛迦山へ向かう準備をした。港に着くと、海上は風が強く波も荒れていたため、すべての船が出航を見合わせていた。私たちは港でずっと待っていたが、しばらくすると、一隻の小さな個人船が出してくれることになった。ただし、船代は十元に値上がりしていた。私たちは十数人の観光客と一緒にその船を貸し切った。船室はとても狭く、十数人がぎゅうぎゅうになって船室の床に座った。船が出ると、風も波もかなり強かった。私はこういう小さな船に乗るのは初めてだったので、興奮と好奇心でいっぱいで、危険なことが起こるなんてまったく思っていなかった。船に乗っていたほかの人たちは、たぶん地元で仏教を信仰している人たちだったのだろう。ほとんどの人が数珠を手に持ち、香袋を背負っていた。そして船に乗るとすぐに、みんな「南無観世音菩薩」と唱え始めた。私はさすが観音菩薩様の道場だ、地元の人は敬虔に観音菩薩様を信仰しているんだと思った。
しばらく船が進むと、突然、風と波がさらに激しくなり、木船は激しく揺れ始めた。波が船室に入らないように、船室の入り口は厚いカーテンで塞がれていた。船室の中は暗くて蒸し暑く、私は小船がもう方向を失ってしまったのではないかと思った。その場でぐるぐる回っているようで、揺れはどんどん激しくなり、船の中の人たちは放り出されるように揺さぶられ、お互いに押し合うように一つの塊になっていた。やがて誰かが吐き始めた。すると眉目秀麗な、念仏を唱えていた一人の子どもが、素早く自分のお香袋からビニール袋を何枚も取り出し、みんなに配り始めた。まさに命の恩人である。みんな「ありがとう」と言う暇もほとんどなく、ビニール袋に口を突っ込んで、次々と吐き始めた。私も腸まで吐き出してしまいそうだった。みんなが夢中になって吐いているうちに、船はゆっくりと止まり始めた。そして、ついに着いたのだ。
船を降りると、雨が降り始めていた。同じ船に乗っていた何人かは、何かのことで船主と言い争っていたが、私と弟は地図を頼りに寺を探し始めた。十分ほど歩いたところで、二人とも何かおかしいと感じ、弟が近くで露店を出している人に道を尋ねと、その人はここは洛迦山ではない。洛迦山へ行くには、また船に乗らなければならないと言った。私たちは霧雨にかすむ海を遠く眺め、ようやく夢から覚めたように我に返った。あの船は、途中で風と波があまりにも強くなった為、引き返して元の港に戻っていたのである。私たちは島のことをよく知らず、船を降りた場所が、実は自分たちが乗った場所と同じだとは気づかなかった。二人は顔を見合わせ、思わず大笑いした。
二日後、風も波も静まり海は、私たちはようやく願いどおり高速船で洛迦山を参拝することができた。その夜、旅館に戻った私はぐっすり眠った。ところが、夜中に突然夢から目を覚ました。見ると、私たちの部屋はまぶしい白い光に包まれ、その中央に白い観世音菩薩のお姿が立っていたのである。そのお姿は高く厳かで、頭は天井に届くほどだった。定に入らない状態で観世音菩薩のお姿を見たのは、これが初めてだった。私はあわてて隣のベッドで眠る弟を見たが、弟はぐっすり眠っているようだった。私は弟を起こすこともできず、ただそのお姿をじっと見つめていた。息が詰まりそうなほどで、部屋の中は静まり返り、自分の呼吸や心臓の音まではっきり聞こえた。すると突然、そのお姿は消え、部屋は再び真っ暗になった。ただ、外から海の潮騒だけが繰り返し聞こえてきた。私は特に深く考えることはなく、ただ少し不思議に思っただけだった。――観音菩薩がこのように姿を現されたのは、どのような因縁があったのだろうか。そう思いながら、私はまた眠りについた。
普陀山への旅は、こうして無事に終わった。師匠に言われたとおり、島にあるすべての寺を参拝し、それ以外の時間はほとんど坐禅をして禅定の修行にあてた。しかし、普陀山では、自分の身体や気脈に特別な変化は感じなかった。
ここで、もう一つ付け加えておきたいことがある。私は十代の頃、ときどき自分が急に大きくなったり小さくなったりするような感覚を覚えることがあった。ただ、それは不思議な感覚だと思うだけで、自分が特別だとは感じなかったし、両親に話したこともなかった。
年齢を重ねてからも、ときどき不思議なことがあった。大勢で食事をしているとき、ふとぼんやりした瞬間に、目の前の人たちの姿が突然変わって見えることがあったのである。犬や猫、豚の姿に見える人もいれば、尻尾が椅子の上で揺れているように見える人もいた。それでも私は驚くことはなく、ただ時々こう思った。生命とは本当に不思議なものだ。ほんの一瞬、目の映り方が変わるだけで、この世界はまったく違う姿になるのだ、と。
船を降りると、雨が降り始めていた。同じ船に乗っていた何人かは、何かのことで船主と言い争っていたが、私と弟は地図を頼りに寺を探し始めた。十分ほど歩いたところで、二人とも何かおかしいと感じ、弟が近くで露店を出している人に道を尋ねと、その人はここは洛迦山ではない。洛迦山へ行くには、また船に乗らなければならないと言った。私たちは霧雨にかすむ海を遠く眺め、ようやく夢から覚めたように我に返った。あの船は、途中で風と波があまりにも強くなった為、引き返して元の港に戻っていたのである。私たちは島のことをよく知らず、船を降りた場所が、実は自分たちが乗った場所と同じだとは気づかなかった。二人は顔を見合わせ、思わず大笑いした。
二日後、風も波も静まり海は、私たちはようやく願い通り高速船で洛迦山を参拝することができた。その夜、ホテルに戻るとぐっすり眠ったが、夜中に突然夢から目を覚めた。見ると、私たちの部屋はまぶしい白光に包まれ、その中央に白い観音菩薩様のお姿が立っていたのである。そのお姿は高大で荘厳で、頭は天井に届くほどだった。入定せずに観音菩薩様のお姿を見たのは、これが初めてだった。私はあわてて隣のベッドで眠る弟を見たが、弟はぐっすり眠っているようだった。私は弟を起こすこともできず、ただそのお姿をじっと見つめていた。息が詰まりそうなほどで、部屋の中は静まり返り、自分の呼吸や心臓の音まではっきり聞こえた。すると突然、そのお姿は消え、部屋は再び真っ暗になった。ただ、外から海潮の音だけが繰り返し聞こえてきた。私は特に深く考えることはなく、ただ少し不思議に思っただけだった。――観音菩薩様がこのように姿を現されたのは、どのような因縁があったのだろうか。そう思いながら、私はまた眠りについた。
普陀山への旅は、こうして円満に終わった。師匠に言われたとおり、島にあるすべての寺を参拝し、それ以外の時間はほとんど坐禅をして禅定の修行にあてた。しかし、普陀山では、自分の身体や気脈に特別な変化は感じなかった。ここで、もう一つ付け加えておきたいことがある。私は十代の頃、ときどき自分が急に大きくなったり小さくなったりするような感覚を覚えることがあった。ただ、それは不思議な感覚だと思うだけで、自分が特別だとは感じなかったし、両親に話したこともなかった。年齢を重ねてからは、時には、大勢で食事をしているとき、ふとぼんやりした瞬間に、目の前の人たちの姿が突然変わって見えることがあったのである。犬や猫、豚の姿に見える人もいれば、尻尾が椅子の上で揺れているように見える人もいた。それでも私は驚くことはなく、ただ時々こう思った。生命とは本当に不思議なものだ。目がちらついただけで、この世界は違う姿に変わるのだ。
師匠から禅定を教えてもらうようになってしばらくすると、私は突然、人の体を透かして骨や内臓まで見えるようになった。ただ、それはまだ安定しておらず、見ようと思っても見えないことがあれば、見たくない時には人の心臓や肝臓、脾臓、肺まで目の前に次々と見えてきて、かえってうんざりすることもあった。師匠は、それは天眼通だと教えてくれた。私の天眼のエネルギーがまだ十分ではない為安定していないが、今後安定してくるだろう。果たして、定力が強くなるにつれて、私は自分で自由にコントロールできるようになった。見たくない時には、天目を閉じることもできるようになった。また、師匠が仏教の五眼六通を講じ終えた後、私は自分に起こったいくつかの現象を落ち着いて理解し受け入れることができた。そして師匠は、私にこう教えてくれた。「神通で遊んではいけない。まず、あなたの脈道はまだ完全には通っていない。まして完全な転化には、まだほど遠い。神通を使うとエネルギーを大量に消耗する。それではエネルギーを集めることがさらに難しくなり、身体のさらなる転化にもつながらない。もう一つ、神通で遊んでいると、外魔を引き寄せやすくなり、他人の因果にまで介入することになる」。私は「では、経典に出てくる多くの菩薩様が神通で遊んでいるように書かれているじゃないか」と尋ねた。師匠は笑って、「あなたが空性を証得したなら、どう神通を使おうと構わない。それに、今のあなたは、まだ神通と呼べるほどのものではない。ただの小さな機能にすぎない」と言った。当時の私は、神通が持つことは悪いことではないと思っていた。たとえ小さな機能であっても、それによって仏法に対する正信を持ちやすくなるし、修行も退屈には感じなくなる。境地を見ることが、修道への信心を強めてくれると思っていた。しかし、どんなことにも良い面と悪い面がある。小さな神通が持つほうが、かえって走火入魔しやすい。心の中にある貪り、怒り、愚かさ、慢心、疑いを手放すことは、神通にはできないからだ。もし最後まで習気を断ち切り、智慧を開くことができなければ、どれほど大きな神通を持っていても、最終的に心身の自在を得ることはできない。私たちは、思いのままに神通を使って遊ぶこともできないのである。
普陀山から戻ってから、家の中はすべて落ち着き、皆それぞれが元の生活に戻っていった。私が一番大きな収穫だと感じたのは、心が随分広くなり、心境がますます穏やかになっていったことである。この頃から、私は仏典をたくさん読むようになった。手に入るもの、借りられるものは、どんな仏典でもむさぼるように読んだ。『金剛経』『妙法蓮華経』『円覚経』『楞厳経』『大般涅槃経』『六祖壇経』『五灯会元』、さらに南懐瑾、元音老人、チベットのさまざまなリンポチェの開示録、儒教や道教の経典なども読んだ。書かれていることをすべて理解できたわけではないし、ほとんど覚えてもいなかった。もし誰かに「『楞厳経』には何が書かれているの?」と聞かれれば、私は『楞伽経』内容を話してしまうかもしれない。何を得たのかをわかっていたのは自分だけだった。経典を読むことが私はたまらなく嬉しかった。その喜びは、まるで一人の泥棒が、値もつけられないほど貴重な宝石を盗み出したようなものだった。そして、どの本を読んでいても、そこに書かれたたった一言が、そのときの自分の心境にぴたりと重なり、心の中の疑問を解いてくれれば、心の中の結び目が突然ほどけたように感じ、心が花開くように喜びに包まれた。それは、茅塞頓開、醍醐灌頂という感覚だった。仏典の海に酔いしれ、去ることを忘れる……。
その頃になると、私の身体にも同時に変化が現れ始めた。まず、しばらくの間、激しい頭痛が続いた。内視してみると、頭部の脈道がすべて赤くなり、まるで真っ赤に焼けた鉄管のようだった。頭痛は急性髄膜炎にかかったかのように激しく、大きく息を吸うだけでも、少し頭を動かすだけでも、歯をむき出すほど痛くて、耐えられなかった。私はベッドに横になったまま、じっと動かずにいた。すると、自分の頭が一輪の肉の蓮の花のように開いていくのが見えた。花びらが一枚開くたびに、胸をえぐられるような痛みが走った……。そして、ついに蓮の花がすべて開き終わると、頭頂部の気脈がへこみ、まるでレーダーの受信機のような形になった。この過程は、およそ半月続いた。師匠が「気脈が転化しているから、気にしなくていい」と教えてくれていたので、私は特に驚くことも、怖がることもなかった。二つ目の現象は、断続的に食事を取りたくなくなることだった。水だけを飲み、たまに果物を食るぐらい。時には七日間、時には半月続く。私はすべて自然に任せていた。お腹が空けば食べ、空かなければ食べなかった。自分の身体に起きている変化についても、あまり気を取られることはなかった。
この頃、仏教を信仰していたり、気功を練習していたりする友人たちが、よく私の所へ訪ねてくるようになった。私は彼らを温かく迎える以外は、仏教について熱心に語り続けた。自分自身もまだ十分に理解できていない仏教の考えを、無理やり彼らに押しつけるように話し、さらに、仏教を信じて修行するよう一生懸命に勧めた。その間、彼らが口を挟む隙などまったくなかった。仏法にあまり興味のない友人たちは、本当に「忍辱戒」を守っているかのようだった。私の話が何度も何度も耳に押し寄せてきても、ほとんどの人はじっと我慢して聞いていた。昼食の時間になったり、夜遅くなったりして、ようやく礼儀正しく帰っていく。それでも私は何度も引き止め、ときには自分がとても価値があると思っていた仏教の本を何冊も無理やり渡して、「この本は本当に素晴らしいから、絶対になくさないで。次に来たとき、一緒に話し合おう」とまで言っていた。当時の私のあの熱狂を、友人たちがいったいどうやって耐えていたのか、私には分からない。それでも、誰一人として私と縁を切ることはなかった。結局、私の友人たちのほとんどが、仏教を信じるようになったり、禅定の修行に興味を持つようになったりしたのである。
私は師匠の言いつけを守り、なるべく神通を使わないようにしていたが、親しい友人に対しては、ときどき試すこともあった。たとえば、内臓に問題がないかを見たり、宿世のことを見たりするのである。ある日、近所のおばさんが遊びに来た。彼女は半分冗談、半分本気で、婦人科に問題がないか見てほしいと言った。私は彼女の子宮を見てみると、中に黒い腫瘍があるのが見えた。そこで、思わず「子宮に悪性腫瘍がある」と言ってしまった。口にした瞬間、私は後悔した。なんて軽率なことを言ってしまったのだろう。当時の私の診察経験では、人の体内にできる腫瘍や嚢胞には、一般に黒っぽいものと赤っぽいものの二色があると考えていた。黒っぽい場合は悪性の病変であることが多く、赤っぽい場合は良性であることが多い。しかし、その後、長く診療に携わるうちに、良性の腫瘍でも、できてから長い時間が経ち、患者の気血が非常に弱っている場合には、一時的に黒い光を放つことがあると分かった。薬を飲んでしばらく身体を整えると、腫瘍の光は再び赤くなり、腫瘍も少しずつ縮んでいくのである。そのおばさんは、私の話を聞いた途端、顔色が一変して大泣きし出した。私は、こんなにショックを受けるとは思っていなかったので、慌てて「私もときどき正確に見られないことがあるから、病院でもう一度検査してもらったほうがいい。もし本当に私が言ったとおりなら、早く見つかって良いことだよ」と慰めた。しかし、彼女は私の言葉に耳を貸すことなく、泣きながら帰ってしまった。私はすっかり落ち込んで、家でぼんやり座っていた。これまで診て来た患者は、病気が見つけられた場合、ほとんど正確だった。心の中に彼女のことは少し気の毒と思った。今後診察をやめようと思った。たとえ病気が見つかっても、治療できない。かえって彼らに余計な苦痛を与えてしまうだけだ。一方で、修行する者として、目の前の人が病気だと分かっているのに、本人に伝えないのも、良心が咎めるような気がした。私は一人でしばらくぼんやり座り、心の中でこう思った。「自分がもっと良い医者だったらいいのに。昔の李時珍や華佗、扁鵲のように、人の病気を治して救うことができたら、どんなにいいだろう」。このの願いはすぐに叶うと思わなかった。
ある夜、私は座禅を組んでいた。すると、師匠がやって来て、ある師匠に会いに連れて行くと言った。禅定の中でしばらく歩いた後、師匠は私をある墓の前に連れて行った。墓石には「李時珍之墓」と刻まれていた。師匠は私に墓に向かって礼拝するように言った。私は何も考えず、そのまま墓石に向かって礼拝した。すると墓が突然炸裂し、一人が墓の中から飛び出してきて、私の手をつかみながら「私はお前をずっと待っていた!薬草の見分け方を教えてやろう!」と叫んだ。私は何が起きたのか理解する間もなく、その人に連れられて、薬草が一面に生い茂る小高い山の前に着いた。その人は興奮しながら、一株一株の草を指さし、その名前を教えてくれた。話す速度がとても速かったので、私は必死に覚えようとした……。禅定から出た後、私は禅定中の出来事を思い返し、疑問でいっぱいになった。もしかして、先ほど昏沈に陥って眠ってしまい、夢を見ていたのだろうか?李時珍は、もう何百年も経つのに、まだ生まれ変わっていないのだろうか?しかし、私の頭の中には、いくつかの薬草の名前とその姿がはっきりと記憶されていた。私はそれらを簡単に紙に描き、翌日、弟に聞いてみようと思った。
翌日、弟が私の話を聞いた後、私が描いた図と薬草の名前を見て「『本草綱目』を調べてみるよ。」と言った。すると、その本の中に私が言った数種類の薬草の名前が見つかった。しかも、横に描かれていた図も、私が描いたものとほとんど同じだった。弟によると、これらの薬草はあまり使われない為、弟もその名前には詳しくないとのことだった。禅定中、師匠は私に「李時珍に師事して、中医知識を伝授してもらいなさい。」と言った。それ以来、李時珍は私の二人目の師匠となった。その後、黄という苗字の師匠も現れた。その師匠は鍼灸だけを教えた。私は以前師匠に学んでいた時と同じように、毎日入定した後、李時珍に中医学の理論を教わり、黄師匠に鍼灸を教わるようになった。二人の授業はとても速く、図や文を交えながら説明してくれた。例えば、李時珍が一株の薬草について説明すると、その薬草が生き生きと私の目の前に現れるのだ。もし、はっきりと見えなければ、その薬草を瞬時に何十倍にも拡大する。李時珍が薬草の性質について、寒性で、酸味があると説明すると、私の胃の中にも同時に寒さと酸味の感覚が現れた。薬草がどの経絡を通るのかを説明するときには、私の目の前に生きた人体が現れた。ただし、その人体は透明で、異なる薬の組み合わせや分量によって、薬がその人の気脈に沿って巡っていく様子をはっきりと見えるのだ……
黄師匠が鍼灸を教える時も、私の目の前には同じように透明な人体が現れた。その人の気血は循環しており、経絡の分布は暗い色の光でつながっていた。ツボの箇所は特に明るく、点滅する光点になっていた。李時珍や黄師匠と私との意思疎通は、師匠とのようにスムーズにはいかず、相手が何を伝えようとしているのか分からないことがよくあった。二人の授業を聞いている時、私の頭の中は真っ白で、出定してから、彼らが教えてくれた方法や画像を覚えているだけで、授業の内容はほとんど覚えていなかった。私は少し心配になり、師匠に尋ねた。「このように中医学を学んでも、出定してから使えない」。師匠は「心配する必要はない。彼らが教えたことは、すでにプログラムとして君の脳に入力されている。将来、君が使うときには、自然に出てくる。」と言った。私はもう心配しなくなり、毎日、入定して講義を聞くようになった。このような学びは半年以上続いたが、ある出来事が起こり、中断することになった。
ある日、夫が豚の脂身を5キロ買ってきて、ラードを作るように私に頼んだ。普陀山から帰ってきてから、私は肉を見ても吐き気しなくなった。家では夫も、お手伝いさんも、子供も肉を食べていたが、私だけが菜食をしていた。午前中、私は豚の脂身をすべて炒め鍋に入れて加熱し、すべて油になったところで、その油を大きな盆に移した。その時、油からはすでに青い煙が出始めており、お盆いっぱいに油が入っていた。油の入った盆を調理台の上に置いたが、私はこの場所は低すぎる、もし子供が遊びに来て、うっかり盆にぶつかってひっくり返してしまったら、大変なことになると思った。その時、私の頭はぼんやりしていたようで、その油がいっぱいに入ったお盆を持ち上げ、家の窓台の上に置こうとした。窓台の幅は手のひらほどしかなく、子供でさえ、そんなところにお盆を置けると思わないはずなのに、私はその時、そうしてしまったのだ。お盆を窓台に置いた途端、すぐ片側に傾き、油がこぼれ始めた、私は手を伸ばして盆を支えようとして、その結果、油がすべて右腕にかかってしまった。私は大声で叫んで、自分がどうやって台所から居間まで飛び出したのかも分からず、気がつくと、私は左手で右腕を押さえながら居間に座り、痛さのあまり大声で泣いていた。右腕はたちまち真っ赤になり、右手は鶏の足のように縮こまっていた。油の毒が皮膚を一層一層奥へと炸裂していくにつれ、数秒おきに、心臓をえぐられるような激痛が襲ってきた。私は床に座り、足をむやみにばたつかせながら、大声で泣き叫んだ。人目も気にしていられず、平静さもすっかり失っていた。お手伝いさんは恐怖のあまり、廊下に飛び出し、各部屋のドアを叩いて、火傷の塗り薬を求めて回った。火傷の塗り薬を塗ると、ひとまず少しだけ痛みに耐えられるようになった。ふと李時珍のことを思い出し、私は急いで寝室のドアを閉め、座禅を組んだ。私は入定したわけではなかったようだが、李時珍がやかんに入った熱湯をすべて私の腕にかけるのをはっきりと見た(これは定境であり、決して真似してはならない)。その後、李時珍はあらかじめ用意してあった赤いペースト状の薬を一碗取り出し、私の腕に少しずつ塗ってくれた。すると、腕全体が次第にひんやりとしてきて、痛みもかなり和らいだ。そのとき、手と腕に大きな水ぶくれができ始めた。李時珍は薬を塗りながら、私を慰めてくれた。「大丈夫だ。そんなにひどくはない。すぐによくなる。」当時、私は右手を伸ばせなくなり、障害が残るのを恐れていた。
師匠が私を見舞いに来て、こう言った。「これはお前の劫数だ。私たちはすでに全力を尽くして、その災いを最小限に抑えたが、それでも少しは肉体的な苦痛を受けなければならない。安心して、完全に回復できる。」師匠は「今回、油で火傷をしたことには、もう一つ思いがけない収穫があった。お前のあの耳をつんざくような叫び声で、私の友人の一人が出定から出たのだ。」その時、私は禅定中でに突然ある洞窟にいた、洞窟の中の座布団には、髪を束ねずに垂らしている道士が座っていた。その人は骨格が普通の人とは違い、輝いた目で両目私を見て、そして、師匠に向かってこう言った。「もう少しで大事なことを台無しにするところだった!」すると、彼は立ち上がり、脇にある石の台の上に置かれていた古い装丁の本に向かって、深々とお辞儀をして、恭しくその本を手に取り、私に渡してくれた。本の表紙には『黄帝内経』と書かれていた。私は彼の前に座ると、彼は本内容を教え始めた。私はぼんやりとしたまま、どれほど座っていたのかも分からずやがて出定した……
師匠たちの助けを受けながら、私も自分で病院から火傷の塗り薬を買った。一週間後、大きな水ぶくれはすべて消え、指も自由に伸ばせるようになった。しかし、皮膚がただれ始めた。師匠は言った。「今回の火傷により起こした油の毒が引き金となり、お前の体内にある毒がすべて手から排出されることになる。おそらく、断続的に三年くらいを続くだろう。多少かゆくがあるが、我慢しなさい。」私は、痛みよりかゆみのほうがずっと楽だろうし、かゆみ止めの薬を塗ればいいだけだと思った。我慢できない時に、少しかいてもいい――しかし、私の結論はあまりにも早すぎた。
このかゆみは、まるで何千万匹ものアリが全身を這い回っているかのようだった。手や腕がかゆくなると、全身が反応し、舌や心臓までかゆくなった。ベッドの上を転げ回る以外、どうすることもできなかった。痛みなら、まだ数分間は座って耐えることができたが、かゆみは一秒たりとも座禅はできなかった。幸い、かゆみの発作には一定の規則があり、一般的には午の刻と子の刻に最もひどくなった。夜はできるだけ早く寝るようにしていたが、子の刻になると、どんなに熟睡していても、かゆみで突然目が覚めてしまった。その頃、夫は出張中で、私のそばには年配のお手伝いさんが一人いるだけだった。彼女の面倒見に本当に感謝している。夜中、私のうめき声が聞こえると、彼女はすぐに起き上がり、やかんの熱湯をお盆いっぱいに注ぎ、そこに塩を一つかみ入れて、私は少しずつ腕をその中に入れた。当時、筋肉は軽くただれていたが、かゆみがあまりにもひどく、熱湯の熱さも構えていられなかった。かゆみの発作は毎回およそ30分続き、かゆみが治まると、ただれた皮膚から黄色い毒液が流れ出た。毒を排出しているため、師匠たちはそばで見守り、私を慰めるだけだった。あるとき、私は師匠に言った。「かゆみが耐えられないほどひどく、刀でこの腕を切り落としてしまいたい。」師匠は私を気の毒そうに、痛ましい表情で見つめたが、何も言わなかった。私は、今回ばかりは師匠にもどうすることもできないのだろうと思った。しかし、数日後、師匠はとても嬉しそうに、一人を連れて私のところに来た、師匠はその人のことを「師父」と呼んだ。その人は師匠よりもずっと若く見えた。その人は私の手を見て、「始めよう」と言った。師匠は私に静かに座るように言い、二人は私の前に座った。私が心を静めた途端、古琴の音が聞こえてきた。師匠の前にはすでに古琴が置かれており、それを弾いていた。もう一人の師匠は胸に琵琶を抱えていた。師匠の琴の音は低く、旋律があったが、もう一人の師匠の琵琶からは、風が吹くような「ウー、ウー、ウー」という音だけが聞こえてきた。瞬間、二人の師匠の楽器から無数の金色の光が放たれ、私が包まれた。突然、全身が熱くなり、自分の脈道から強烈でまぶしい白い光が次々と放たれ、金色の光と溶け合っていくのが見えた。耳に届く音楽はますます激しくなり、私は無数の金色の光に貫かれ、溶けていき、光の中に消えてしまった。その瞬間、二人の師匠が五音を使って私の体内の毒を排出しているのだと、突然理解した。そして、その後のことは何も分からなくなった。目が覚めた時、二人の師匠はもういなかった。自分の腕を見てみると、少しよくなっていた。それ以来、かゆみは大幅に軽減した。火傷した部分だけがかゆくなり、ほかの部分まで一緒にかゆくなることはなくなった。私は師匠に何と言えばよいのか分からず、ただ静かに涙を流した……
その後、師匠は腕の毒をもっと早く排出するために、太極拳を練習してみるとよいと教えてくれた。そこで、私は先生について数か月間太極拳と太極剣を習い、動きはまだ正確ではなかったが、それでも腕の回復にある程度役立った。
師匠から二度目の知らせは五台山への参詣だった。今回は家族のほとんどが反対しなかった。五台山は家から車でわずか2時間余りの距離にあり、滞在期間も短く、一週間だけ。私は以前、一度五台山に行ったことがあったが、そのときはただ観光をし、お土産を買って帰っただけだった。今回は当然違う。長姉もとても乗り気で、一週間の休暇を取り、私と弟に同行してくれた。五台山に着くと、まず小さな旅館を探して宿泊し、それから菩薩頂に参拝した。菩薩頂の大雄宝殿で礼拝していると、突然童子が目の前に現れて言った。「文殊菩薩は今日はいない。明日月が満ちる頃に戻ってくると、あなたに伝えるように言われた。」その後、私たちは順番に黛螺頂にも参拝した。翌日の夜は、ちょうど旧暦の十五日だった。私は、文殊菩薩にはまだ会ったことがない、今日こそ彼が戻ってくるのを待ってみようと思った。私は夜11時から座禅を始め、窓の方を向いて座った。窓ガラス越しに、晴れ渡った夜空と空に浮かぶ満月を見えた。自分が入定していたのか、それとも目を開けていたのかを忘れたが、、すると突然月の方から小さな黒い点がこちらに向かって移動してくるように見えた。瞬く間に、窓ガラスが白い光に包まれ、文殊菩薩様が青い獅子に座ったまま、窓から入ってくるのを見えた。私は完全に驚き呆然とした。なんと美しいのだろう!これまで私が見た中で最も美しかったのは天女だったが、文殊菩薩のお姿と比べると、俗っぽく感じられた。ぼんやりとした光の中で、文殊菩薩様は男身を現し、衣装は荘厳で華麗だった。手には横笛を持ち、口元に当てて吹いていた。青獅子は文殊菩薩様の足元で体を丸めて伏せていた。笛は確かに吹かれているようだったが、私には音が聞こえなかった。私は尋ねた。「菩薩様は何を吹いているのか?」文殊菩薩は「私は世界のあらゆる音を吹いているのだ……。」と言った。文殊菩薩様は、私に万事うまく行っているかと尋ねられたようだった。私は「うまく行っている」と答えた。そして、翌日は五つの台頂に参拝するつもりだとお伝えした……。それから十数分後、文殊菩薩様のお姿は部屋から消えていった。
五台山の五つの台は、それぞれ五つの峰の頂上に建てられており、文殊菩薩様の五つの智慧を表している。黛螺頂への参拝は小朝台という、五つの峰の頂上をすべて参拝することは大朝台という。その頃、五つの山ではいずれも峠道の工事が行われて、車では上がれなかった。私たちはバイクを改造した三輪車を借りたが、道はとても険しかった。北台だけは三輪車でも上がれず、ほかの四つの台には車で頂上まで行き、一つの台は一日かかる。五日後、私たち三人ども日焼けで顔の皮がむけてしまった。五つの台を巡る間、道沿いにある寺院にもすべて参拝した。地図で見つけられる寺院であれば、どこでも必ず立ち寄った。たとえ遺跡しか残っていない場所でも、師匠は私に一度見ておくように言った。師匠によると、それは広く善縁を結ぶためだった。当時、私の手は毎晩戻ってくると、相変わらずかゆかった。皮膚にはびっしりと小さな水ぶくれができていた。さらに、火傷をしていない左手も右手と同じように、皮膚が赤くなり、ただれて、液体が流れ出すようになった。かゆみはまだ我慢できる程度だった。師匠は、これは毒を排出しているのだと言い、普段から食事を少なめにし、食べないで済むなら食べないのが一番いい、水や果物、野菜を多く摂り、座禅も多くし、なるべく心を穏やかに保ち、怒らないようと言った。そうすれば、そうすれば体内で新たな毒が少なくなるという。
五台山から戻ってから、私の体は断続的に不調を感じ、しばしば食べる気も飲む気も起きず、全身がふにゃふにゃして力が入らず、微熱もしばしば出た。しかしベッドで数日休むと、またすべてが正常に戻った。師匠は気脈を転化しているのだと言った。一人の人間が気脈を転化し終えるには、程度の異なる脱胎換骨を百回以上繰り返す必要があり、転化に必要なエネルギーは、地球をいくつか爆破するのに足るものだとも言った。私は毎日2時間余り座禅していたが、しばらくすると師匠が毎日最低8時間の座禅を定めたので、私はできるだけ時間をやりくりして坐った。一日の座禅時間が合計で8時間に達すれば、任務達成とされた。
しかし師匠は、これではエネルギーがまだ遠く及ばないと言った。主な原因は、座禅を終えた後に起心動念して、座禅で得たエネルギーはまた大部分消耗されてしまうのだ。そこで師匠は言った。「気脈の転化は、まず心念を転化しなければならない。心念をどれだけ空にしたかだけ、エネルギーをどれだけ集められる。心の執着するところがなくなって初めて、エネルギーが大量に散失されなくなる」。普段、私の打坐で集めたエネルギーは、六根によって一部が消耗され、心の動きで大部分が消耗された。たとえ一日中静かにしていられても、心の気がかりがなくならない限りでは、気脈の一部を通すに過ぎない。転化できなければ、通った気脈もまた塞がれてしまう。私たちはしばしばこの過程の中を彷徨っている。
自分の修証の体験から、最初は、密宗で区分されている中脈・左脈・右脈は全部見えるものではない。それらは血で満たされ、百脈に絡みつかれ、臓器と絡み合っており、脈道はとても汚れている。修証の功夫が一定の時期に達すると、脈道は浄化され始め、その時になって初めて少し形が見え、通ることもある。修め続けると、脈道は光で満たされ始める(私たちはエネルギーを一定のところまで集めると、それを光に転化する)。この時になって初めて左中右の三脈が完全に現れ、書物に書かれているのとまったく同じである。中脈は青みがかった赤い光を放つ。私たちのすべての臓器は脈に沿って生まれているので、気脈が通った後、臓器がわずかに位置をずらすのは正しいことだが、その移動はあまりに微妙で、外からはまったく察知できない。百脈と三脈の主な絡み合いが脈輪であり、これらの脈輪は気脈の転化に伴って、開いて行く。脈輪が一つ開くごとに、異なる神通が現れる。一般の人がすべてを開くのは難しく、うまく修めても脈輪の一部しか開くことができない。私たちの全身の脈道は、地球上の川のように多く、数え切れない。もし気脈がすべて開通し転化されれば、私たちの一つひとつの細胞も同時に光化される。それはすでに五眼六通の範囲を超えており、すなわち、集まれば形を成し、散れば気となるのである。
心と体は互いに依り合っている。一般の人はまず心意識の転化から始めて、ようやく生理の転化にまで到達できる。しかし、外からの力が助けてくれるなら、時には生理の転化を通じて、逆に心意識の転化に影響を与えることもできる。私の修証の過程は後者に属する。この時期、私は禅定の中や夢の中で、よく小動物が訪ねて来たり、助けを求めに来たりしていた。たいていは劫難を逃れる為か、彼らを済度してほしいということで、蛇と狐が多かった。彼らはよく薬用人参、霊芝、あるいは宝物を私へのお返しとして持って来た。そして私は定中にそれらを食べて、自分のエネルギーを増やした。ある時、一匹の短くて太い黒い蛇が宝を献上しに来た。見ると、それは墨緑色の珠を一つ吐き出した。私はそれが蛇の丹だと思った。もし私がそれを取れば、この蛇は死んでしまう。その時、声が響いた。「早く受け取って、それを食べなさい!」。私はその通りにした。すると突然、私の目の前に一万匹を超える蛇と亀が現れた。彼らは皆とても興奮しているようで、喜び勇んで跳ね回った。蛇王は言った。彼らは私から数百キロ離れた沼沢地に数百年も住んでいるが、今、劫難が訪れ、一族全体が滅びようとしている。私に彼らを救ってほしいと……
この出来事の後、師匠は私にこう言った。これからは、こうした動物が何かを献上しに来たら、どんなものでも受け取らなければならない。受け取らなければ縁を結ぶことができず、彼らを済度することもできない。ましてや、私の修証の過程は多くのエネルギーを必要とし、それは短時間の座禅で集められるようなものではない。彼らが献上するものには、百年どころか千年もの間蓄積されたエネルギーが宿っている。それを食べれば、直接摂受することができる。ただ、いくつか弊害もある。このエネルギーが直接私の体内に集まると、短時間は私と一体になれず、また排出しなければならない毒素があれば、気分が悪くなることもある。エネルギーが強すぎると、自分の脈道が一時的に変換しきれず、息苦しくてたまらなくなることもあり、時には暑くなったり寒くなったり、苛立って落ち着かなくなることもある。師匠は私に、エネルギーを調整して放出する簡単な方法をいくつか教えてくれた……
言い忘れていたが、私には護法――獅王がいた。私はこの獅王がとても好きだった。師匠が連れて来たもので、三年余りの間、私にぴったりと付き従った。夜、私が眠るとき、獅王は静かに私のベッドのそばに伏せていた。全身は白い毛で覆われ、一本一本が鋼鉄の針のように硬く、体長は二メートル余りあった。私が座禅する時は、その周りを行ったり来たり巡回していた。ある時、禅定の中で、走るのがとても速いすばしこい小精霊が、突然、私の座の前に置いてあった数珠を奪い取った。私が反応する間もなく、獅王は追いかけて行って、その腰を噛み、真っ二つにしてしまった。私はあっけにとられて見守るばかりで、心の中で獅王には慈悲心が欠けていると責めた。ただの数珠一連ではないか。そこまで惨たらしく噛み千切ることもなかったのに。しかし獅王は相変わらず自分勝手で、私のどんな説教もまったく聞き入れなかった。ある時、眠っていると、突然獅王がその巨大な頭を私の顔の前に寄せ、銅の鈴のような大きな目で私を見つめた。その顔はまさに天下で一番恐ろしい顔で、私は怖くて息をすることもできなかった。ところが獅王はなかなか頭を私の前から動かそうとしなかった。心の中では悪意がないと分かっていても、怖くてたまらず、結局心の中で師匠を呼んで窮地を救ってもらった……。それ以来、獅王は二度とそんなことはせず、とてもおとなしくなった。私は時々手でその背中を撫でた。夜、ベッドで寝るとき、私は習慣で手をその背中に置いていた。獅王は私のベッドのそばにいたが、その背はまだベッドより一段高かったからだ。獅王は私を訪ねて来る小動物たちにとても親切で、私に用事があるときは、彼らを静かに脇で待たせてくれた。三年後、私のそばの護法は韋駄天菩薩様に代わり、獅王は私のもとを去った。韋駄天菩薩様の私への守護は獅王とは違っていた。私はいつも彼を見られるわけではなかった。ただ、禅定の中か、普段、恐怖が湧いてきたとき、彼は突然私の前に現れ、私はすぐに何も怖くなくなった。ある時、私は禅定の中で大仙が送ってくれた丹薬を食べ、全身が光を放った。すると韋駄天菩薩様が突然私のそばに現れ、私をじっくり見て尋ねた。「なぜ頭の上に青い光を放っているのか」私は笑って、丹を食べたからだと答えた。韋駄天菩薩様は真剣な顔で言った。「これから丹を食べるときは一声かけてくれ。何かあったのかと思った」。
師匠には、いつもそのそばに付き従う弟子が八十人余りいた。初めて私を師匠に引き合わせてくれた若い僧侶が大師兄だった。彼は二師兄とよく私を訪ねて来て、普通の僧侶の姿を見せ、私を「小師妹」と呼び、おいしいものを差し入れてくれた。
弟の診療所は、当時すでに三、四年開業していた。しかし私が修証を始めてから、弟はよく私の付き添いで出かけるようになり、診療所はしばしば休業状態になった。弟は診療所を開くことに少し消極的な気持ちを持っていた。彼は言うには、私が病気を調べるのはあんなに正確なのに、自分は脈を診てもどうしても私のように正確にはなれない。自分はいい医者にはなれないと思っている。それでは患者に申し訳が立たない。医者という仕事を諦めてしまおうと思っている。しかし彼は対応が丁寧で、診療費も安く、彼の診療所に来る患者も風邪や熱といったものばかりで、診療所で注射を打ち、薬を飲めば治るので、彼を訪ねる患者はかえって増えていった。診療所の近くに住む住民たちも、用事がない時も彼の診療所に集まって雑談したり、将棋などをしたりするのが好きで、皆さんがとても心地よく感じていた。弟もそのまま診療所を続けていった。
ある時、母が重い病気にかかり、一週間寝込んだ。一週間点滴を打ち続けたが、少しも良くならなかった。母は私が物心ついた頃から全身に病を抱えていた。糖尿病、先天性心臓病、重度の神経衰弱、腸癒着、胃下垂、腎盂腎炎などで、一日として苦痛のない日はなかった。弟は手の打ちようがなく、私もとても焦った。私は黙って仏の前で母のために祈った。母を救いたい一心だったのか、その夜、私は真夜中に夢からはっと目を覚ました。時計を見るとまだ三時過ぎだったが、眠気はすっかり消えており、起き上がって座禅した。するとその時、頭の中に突然、白い光に満ちた銀屏が現れ、その上に一つの処方箋がはっきりと浮かび上がった。私は急いで紙と筆を用意して、それを書き写した。直感的に、これで母の病が治せると感じた。翌日、私は嬉々としてそれを弟に見せた。これが私が書いた最初の処方箋だった。弟はそれを見て言った。「いくつかの薬の用量が常用量をはるかに超えているし、砒霜の量も多すぎる」。母に飲ませるべきだろうか。私たち二人は顔を見合わせて決めかねた。するとその時、母が部屋の中でどういうわけか私たちの話を聞いてしまい、こう言った。「怖がらなくていい。私に薬を調合してちょうだい。母さんはもうほぼ一生分の薬を飲んできたし、この病も治りやしないんだから。今回はあなたの処方箋を試してみるわ」。弟は突然決心して薬を調合した。しばらくして、薬は煎じ上がり、母の前に運ばれた。私たちは不安で落ち着かない気持ちで、母が薬を飲み終えてまた横になるのを見守った。しばらくすると母は眠り、どうやら大したことはなさそうだった。母のその眠りはとても深く、何日も病気でろくに眠れなかったせいかもしれない。目が覚めた時にはもう正午だった。母はだいぶ元気になり、すぐにベッドから起き上がって歩き回った。三服の薬を飲み終えると、母はもう普段の様子に戻っていた。だから、母が私の薬を最初に飲んだ人なのだ。
母はひとまず回復し、私はとても嬉しかった。しかしその時、自分を医者と結びつけることは考えていなかった。禅定の中で学んだことは、出定後にやることとは別物だと思っていたのだ。その間、私はよく李時珍や黄師匠たちと交流した。彼らは中陰身だったので、私は家に彼らの位牌をいくつか供えた。また、彼らが中陰身のまま禅定を修行する姿をよく見かけた。李時珍は座禅のたびに自分の座布団の周りにろうそくを一列に灯し、前に黄色い金縁の薬の碗を置くのだった。ある時、彼が座禅の途中で急に用事があって出て行ったので、私はこっそり彼の座に座って、体験してみようと思った。
目を閉じた途端、自分の心臓の鼓動が響いてたまらず、血液が流れる音は小川のせせらぎのように聞こえ、さらには地球の自転する音まで聞こえた。普段、禅定の中でもこうした音は聞こえるが、こんなに大きいことはなかった。今回は、その音に騒がしくて一刻も静かになれないほどで、しかも目の前の薬の碗には無数のひびが入り、そばのろうそくも風に吹かれたように何本か消えてしまった。怖くなった私は、慌ててその座布団から逃げ出した。
李時珍はその後、このことを口にしなかった。彼が座禅している時、私はこっそりあの薬の碗を覗いてみたが、相変わらず無傷で、割れてはいなかった。私は師匠に尋ねると、師匠は「私が上坐して気住脈停に達することができれば、そんな現象は起こらなくなるだろう」と言った。李時珍は剣も稽古していて、禅定の中で私はよく、彼が剣を舞い、書を練習する姿を見た。ある日、李時珍はすっかり姿を変え、なんと僧侶の衣をまとい、頭も剃髪し、受戒の焼き痕まであった。李時珍が出家したのか?!普段彼が見せている姿は、古代の宮廷医師の出で立ちだったからだ。黄師匠は「李師匠は修行を成就されたのだ」と言った。私にはその成就がどの境地に達したことなのかも分からず、それでも喜んで果物を買い、香を焚き、酒を並べて供養した。黄・李の二人の師匠はどちらも酒が好きだったからだ。その日の後、李時珍は再び医師の姿に戻ったが、私は、彼の話し方がより穏やかで豁達になり、ますます相好荘厳となって、眉間から常に紅い光を放つようになったことに気づいた。
その後、また数人の師匠が来られた。みな古代の名医たちだった。私がよく知らないのは、チベットの薬王と日本の医者の二人だ。私は一人来られるたびに位牌を立てて彼らを供養した。彼らはみな中陰身だった。禅定の中で、私はよく、彼らが集まって一つの処方について検討したり、修行のことを語り合ったりするのを見たし、よく山に入って薬草を採りに行くのも見た。だが、彼らの行動を完全に理解することはできなかった。母のためにあの処方を一つ書いてから、私は自分の家の中で名が知られるようになった。家族のだれかが体調を崩すと、もう弟ではなく私の所へ来るようになった。
最初のうち、処方を書くたびに、昼間に診察し、真夜中になってようやく初めての時のように頭の中に処方が浮かんだ。月日が経つにつれて、私の周りの友人や親戚も診察に来るようになり、私は次第に、診断が終わると患者の病状がそのまま頭の中に入り込んで、それに応じた治療の処方が自然と筆の先から流れ出るようになった。書き始めた当初は、薬の名前を書き間違えることもあった。評判が遠くまで伝わるにつれ、私はいつの間にか患者たちに取り囲まれるようになり、医を業とし、病を治し、人を救う生涯を歩み始めた。
李時珍師匠は、薬の配合について私に教える時、こう言ったことがある。「昔は天然の薬草が多かったが、今の中薬草はほとんどが人工栽培で、質が悪い。しかも摘み取りや加工も厳密ではなく、薬の乾湿の加減も規範に合わない。それなのに、現代人の病はますます複雑になっている。だから、処方を書き、薬を用いるときは、多くの薬を『本草綱目』に記載された中薬草の常用量をはるかに超えて、冷薬や貴重な薬材も常用した」。彼はまた言った。「昔は交通が不便で、南北の薬材の交流は非常に難しく、貴重な薬材は宮中にしかなく、庶民は目にすることもできず、用いることもできなかった。だから古代の民間の名医たちが残した処方には、安価でありふれた薬材が多い。だが今は中薬がよく揃っていて、処方に使う薬はたいていの患者が手に入れられる。そして、私が薬を出すのは、暗記した処方を増減するやり方ではない。だから私の用いる薬は一般の中医学とは大きく異なり、毒薬を常用することも多い」。そのために患者にはいくつかの難題が生じた。つまり、当時私は無料で診察してはいたが、患者の治療には大いに力を尽くしていた。ところが患者が私の処方箋を病院やほかの薬局に持って行っても薬が揃わず、毒薬には証明書が必要で、患者の調剤はとても不便だった。また、無責任な診療所もあり、薬の質がひどく悪く、貴重な薬材に偽物を用いることさえあった。それも私はたいへん心配だった……
そうした状況の中で、弟がまた投資して、私が常用する千種類近い薬をすべて自分の診療所に買い揃えた。薬を全部揃えるため、彼は省をまたいで各地の薬材会社まで出向き、見て回り、調べるという、とても苦労のかかることをした。
こうして患者の調剤はずいぶん便利になり、私も安心して診察できた。その上、当時の私には行医資格がなく、どの診療所にも常駐して診療することはできなかった。診察を求めて来るのは、親戚が連れてきた友人、友人がまた連れてきた親戚ばかりで、私は自宅で彼らの診察をするしかなく、しかもずっと一切の費用を受け取らなかった。遠方から来た友人には家に泊め、食事も振る舞った。私が毎日座禅する時間はますます少なくなっていった。
私は中医学専門の成人自学試験を受験し、無事に医師資格証を取得した。資格証を取得するまでに、私が無償で診察した患者はすでに数千人に上り、カルテも大きな箱いくつ分にもなっていた。行医の過程で、私は李時珍に、医科大学で数年研修を受ける必要があるだろうかと尋ねたことがある。彼は言った。「決して、決して、そんな教条的で硬直した考えを君の頭の中に入れてはいけない。君は今、まるで一枚の白紙だ。私たちが話すことは、君はただ吸収するだけで、自分の意見を持ち出して私たちと対抗したりはしない。私たちも、そうやって教えるほうがずっと簡単なのだ」。こうして私は中医学の学院で学ぶ考えを断念し、同時に祖国の中医学の衰退を痛ましく思った。
私の十数年にわたる臨床経験の中で、私は病気を一般に四種類に分類している。
1、四大不調によって引き起こされる病、すなわち自然界の風・暑・湿・燥や人の情緒によって引き起こされる疾病である。この類の疾病は一般に、漢方薬でも西洋薬でも治療できる。
2、因果病:これは、生命体が宿世のある経験を記憶に深く刻み込みすぎたために、生まれ変わった後の今生では、体のどこかの気脈が生まれつき他人とは異なっていることによって起こる。いったん身体の抵抗力が低下したり、何らかの因縁が熟したりすると、病状が突然発作する。この種の病は西洋医学では一般に病因を突き止められず、誤診・誤治に陥りがちである。例えば、ある人の前世は一頭の獅子で、伝染病で死んだ驢馬を一頭食べ、それに感染して同じ病で死んだ。死ぬとき、毛皮が抜け落ちた。そしてこの世で四十代の頃、突然皮膚病を患い、その病状は前世で死んだときと同じで、全身に短期間で大きな斑の乾癬が次々とでき、堪え難い痒みに襲われ、多くの民間療法を試しても効かなかった。ところがある日、彼は何気なく驢馬肉を一碗食べたところ、数日のうちに皮膚病がほとんど治ってしまった。これは一種の因果病であるが、この事例の回復はやや特殊である。
また別の患者は、前世で日本人に捕まえられ、蚊の餌にさせられた。今世また人として生まれ変わったが、脈道の中に生まれつき蚊の毒がある。三十歳の頃から全身と顔に小さな水疱ができ、掻くと硬くなって爛れてきて、とても痒い。さらに別の患者は、前世は一匹の魚で、金網の一節に挟まって死んだ。今世に生まれ変わった後も、その病の記憶は彼の脈道の中に残っていた。ある日、彼の腰と臀部が突然激しく痛み出し、病院で超音波検査やCTを受けても異常はなく、ただ神経系統やリウマチなどの病として治療されるだけだった。実はこれも因果病の一種である。
3、外邪の侵入。自然界では毎分毎秒、小さな生命が死んでいる。それらは死後、生物波という形で空間の中に存在するが、空間を占めることはない。現在は、携帯電話やコンピューターなどの近代的な設備が大量に使われていることに加え、大気汚染や気候などの原因によって、それらの生存空間に一定の干渉が与えられている。そうなると、人の身体のどこかの臓器にわずかでも陰陽の不平衡が生じ、人体の生物波の波長の振動周波数がそれらと一致すれば、千里万里を問わず、瞬時に人の身体に付着することができる。時間が経てば、臓器への損傷はかなり大きい。例えば、かつて二人の患者がいた。いずれも蛭の附体で、一人は肝臓に付着して溶血性貧血を引き起こしていたが、病院はいつまで経っても病の起因を突き止められなかった。二人目は脾臓に付着しており、中焦の気脈が通じず、患者は食事ができなかった。下腹部が張り、脾臓も肥大し始めて虚血となり、病院は彼の脾臓を切除したが、病は治らなかった。なぜなら、その蛭がまだ彼の脾臓の脈道の中に残っていたからである。このような外邪の附体は、必ずそれらを脈道から排出して初めて、患者は完全に回復できる。
4、外魔の附体。これは宇宙の間にいる妖・魔・精・怪が身体に付着するもので、いずれも病人との何らかの因縁によるものである。この種の患者は、その多くが顔つきや様子が常人とは異なり、泣いたり笑ったりし、重い患者は意識が乱れ、支離滅裂なことを言う。それは、これらの外魔がすでに彼らの神経系統を支配しているからである(なお、精神分裂症の患者にもこの病と同じ発病症状があるが、発病の原因が異なるため、すべての精神疾患の患者がこの類に属するわけではない)。この種の病は、病症を突き止められさえすれば、実は最も治しやすい。外魔が去りさえすれば、患者はすぐに治癒する。発病してからの期間が短く、神経系統が損傷を受けていなければ、薬さえ飲む必要はない。しかし、これらの附体を去らせるのは、そう容易なことではない。それらの間の宿世・今生の確執を解決し、彼らの恩讐を解消してやる必要があり、必要に応じて、医者は彼らが自分の福報と功徳を使って債務を償うのを助け、彼らを救済し済度する力が求められる。例えば、ある女性患者は診療所に来たとき、踊り、歌い、話がめちゃくちゃだった。患者の家族は、この状態がもう二十年以上続いていると言った。この患者はまさに外魔の附体に属する。私は診断の際に、彼女に付着した外魔と対話し、道理を説き、彼に一定の補償を与え、彼と患者の間の宿縁を解消したところ、外魔は去っていった。私は患者に四服の薬を処方し、彼女の神経と心神を調節した。患者は薬を飲んで治り、今から数年経った今も再発していない。もう一人の患者もこの類に属するが、この患者は発病前に身体が非常に虚弱だったため、附体が去った後も神経系統の損傷が大きく、しかも不眠で血圧が高く、脳にも少量の水が溜まっており、さらに半年余り調整してようやくほぼ回復した。したがって、この種の病は発病後の調整が早ければ早いほど、患者に残る後遺症は少ない。
これら四つの一般的な発病原因のほかに、自然界の大きな疫病の流行に属するものもある。ある種の疫病は、実は別の次元から来ている。例えば、かつて無数の毒物を呑み込んで修行していた大ニシキヘビがいた。それは上万年も修行していたが、人類の共業の召感(人類の共業は殺生に由来し、貪瞋痴慢疑の加重に由来する)によって修行環境を壊され、移動の途中でうっかり私たちの次元を汚染してしまった。その大蛇が通ったところは、草木がことごとく枯れ果て、地球の上空の一部に赤い毒霧の場が現れた。これらの毒は私たちの呼吸系統の脈道に入り、患者によって異なる変異菌群を生み出し、あるいは重症の場合は菌類が生じる間もなく直接私たちの肺の脈道を腐食し、ひいては肺機能を損傷する。現代医学の手段は、患者がすでに発病した状態を検査できるだけで、集団発病の深層の誘因を理解することはできない。また、同じく私たちの共業の感召によって、別の次元における蠍の生活環境が壊され、蠍たちが突然一つの場所に大量に現れて、大量の家禽が中毒する疫病の流行を引き起こした。したがって、三界は宇宙の場の浄化が必要なのである。人類にとっては、殺業を少なくし、一人ひとりが善念を多く発せば、それだけで宇宙の浄化に大きな役割を果たすことになる。
実は、すべての病は、仏法に照らして言えば、すべて私たちの業力の顕現である。なぜなら、私たちは本来、業報身だからである。しかし、娑婆世界では、業力の顕現は異なる因縁によって誘発されて初めて、業の種の成熟に至る。私の病の分類も、ただ発病の因縁の違いに基づいて治療を分けるためのものにすぎない。
以上の数種の病が時に同時に患者に現れ、数種の病が合わさった複合症状となる。この二年、この複合症状の患者が急激に増えており、特に四十歳以降の中高年に多い。
私は診病の際に多くのエネルギーを消耗する。当初は毎朝十人の患者を診て、午後には必ず八時間ほどの座禅でようやくエネルギーを補充できた。後に定力が増すにつれて、毎日二時間座れば足りるようになったが、心のエネルギーの消耗はかなり大きく、疲れて心臓が震えることさえあり、髪も大量に抜けた。しかし修行そのものが、自我を手放し無私に奉仕する過程なのである。広く善縁を結び功徳を円満にするため、私は特に気にしなかった。最も心を痛めたのは、患者の誤解だった。中には病気でもないのに、私を試そうとしたり、面白半分で診察に来る患者もいた。私が診療を始めたばかりの頃は、こうしたことが毎日起こっていた。それでも私はできる限り、一人ひとりの患者を丁寧に全身検査し、しかも無料で行った。慰めになったのは、そうした患者たちが帰るときには皆、満足し、謝意を表したことだ。また、約八割の患者は私に診断してもらう際、自分の病状を言いたがらなかった。そのため、もともと脚が痛いのに、彼らはそれについて一言も言わず、私は内から外へ、上から下まで全部検査して、ようやく最後に彼らの脚にたどり着くのだった。多くの患者は私の診病の手技ばかりに注目し、それを特別だと感じる。しかし私は、より重要なのは私の治療だと考えている。私が師匠から学んだ独特の漢方薬の配伍は、必ずや私と縁のある一人ひとりの患者に福音をもたらすだろう。
実のところ患者の気持ちも理解できる。ここで誰かを責めるつもりはない。ただ、あまりに疲れたときには、医者を続けたくないと思うこともあった。そんなとき、師匠はいつも私を慰め励ましてくれた。「患者が理解してくれず信頼してくれなくても怖がることはない。それは君自身の功徳がまだ円満ではないからだ。それに、衆生の貪瞋痴慢疑はもともと重いものだ。君はすでに発心して菩薩道を行っているのだから、一人ひとりの衆生を自分の親族のように思うべきだ。彼らは病の苦しみに苛まれている。君は医術を心得ている以上、見て見ぬふりはできない。実際、医業を利用して人を騙す者もいる。患者が騙されるのを恐れるのは当然だ。君はすべてを縁に任せなさい。君と縁のある患者は自然に君を信頼し、君の治療のもとで治癒するだろう。」
医業に携わりながらも、私はできる限り時間を作って座禅し禅定を修め、仏典も読んだ。師匠が私に読むよう勧めてくれた仏典は、『維摩経』の一冊だけだった。この間、座禅の中で、密宗の持呪や手印を用いて脈輪を開く手助けをすることもあった。私はよく禅定の中でいくつかの修証の方法を思い浮かべ、それを自らの修学に取り入れた。師匠は私がどのような法門を学ぶかにはあまり関心を示さず、ただこう言った。「法門に正しいも間違いも、良いも悪いもない。ただ見地が正しければよいのだ」。私は禅定の中で、元始天尊から上乗女丹功を、もう一人の女の師匠から巴山聖母法門を学んだ。
師匠から三度目の朝山の知らせが来た。普賢菩薩の道場――峨眉山である。今回は弟が付き添ってくれた。家族には異論もあったが、反対は激しくなかった。師匠は、これは私が「忍辱戒」を守った功徳だと言った。私は峨眉山に半月滞在した。私たちは道中の寺院に泊まり、歩きながら景色を眺め、寺に出会えば立ち寄り、日が暮れれば近くの寺に泊まった。峨眉山で最も印象に残ったのは、そこの寺の精進料理がとても美味しく、風景もまた美しかったことだ。金頂で私は普賢菩薩にお会いした。彼女も遠方から帰って来たところで、私を見ると白象の背から飛び降りた。彼女が示した姿は妙齢の少女で、色とりどりのリボンで多くの三つ編みを結っていた。彼女はとても温かく、朗らかな笑い声で、私たちは一緒にお茶を飲みながら話をした。帰り際には、多くの経典や贈り物を私に贈ってくれた。
峨眉山から戻って間もなく、私はまた師匠から地蔵菩薩の道場――九華山へ朝山に行くよう知らせを受けた。私たちはまた寺に宿を求めたが、九華山の頂上で一つ不愉快な出来事があった。私はぜひ九華山頂上の寺に泊まりたいと思い、弟がその寺の客堂に宿泊を頼みに行った。客堂の師匠は、そのとき何かで腹を立てていたらしく、怒り狂ったように断った。弟がもう一度頼もうとすると、その師匠はいっそう怒り、ついには口汚く罵って弟を追い出そうとした。私はそのとき客堂の門口に立ってとても悲しかった。出家者がどうしてこんなふうなのか。慈悲も方便もおろか、普通の礼儀すらもなかった。
私たちは頂上から引き返し、頂上からさほど遠くない、人里離れた寺に泊まった。夜、私は禅定の中で金頂に上った。地蔵王菩薩が歩み出て来られた。彼は男相を示し、背が高く、相貌は荘厳で、手に錫杖を持ち、王者の風格を備えた気品があった。昼間の出来事を話題にして、私は言った。「こちらの弟子はどうしてこんなふうなのですか。」菩薩は気にした様子もなく言った。「どんなふうなのか? 私の弟子はこのような者だ。なぜ君は頂上に泊まることにこだわるのか。」私は、そこはパワーが良く、夜に座禅したいと思ったからだと答えた。菩薩は言った。「もし君がこの件について分別を起こさず、腹も立てなければ、君はすでに頂上で一晩坐っていたことになるのだ。」私はそれを聞いて、夢から覚めたようにはっとし、心の中でひたすら慚愧の念を覚えた。いつから自分はこれほど着相するようになったのか。その後も私は禅定の中で何度か地蔵菩薩にお会いした。彼はそれぞれ異なる相を示したが、あの日のように厳しく、言葉が硬く不愛想なことは一度もなく、非常に慈しみ深く和やかだった。
四大仏教聖地を参拝し終えた後、私はまたおよそ二年余りの間、家で修行し、医業に携わった。時には五台山へ行って短期間の閉関をすることもあった。閉関中は、食べないこともあれば、一日一食にすることもあった。すべての時間を座禅や読書に費やした。実のところ、これは閉関と呼べるものではなく、ただ短期間、俗世の雑事や七情六欲の煩わしさを避けて、静かに数日間修証するだけのことだった。
ある年の冬のこと、私は五台山の小さな宿に泊まっていた。私はよく二階のベランダに立って雪景色を眺めていた。毎朝、ぼろぼろの衣をまとった僧侶が、三歩ごとに一度叩頭しながら黛螺頂を目指して進む姿を目にした。当時の私は、苦行に執着する人に対して少し偏見を持っており、それは心の外に法を求めることだと思っていた。ある日、師匠が突然、私に一歩ごとに叩頭しながら黛螺に登れと言った。私は、あの僧侶に対して分別心を起こしたことが師匠に知られて、罰しようとしているのだろうと思った。黛螺頂には1080段の階段があり、一昨日の夜に雪が降ったので、階段には厚い雪が積もっていた。
私は綿入れの上着と綿入れのズボンを着て、手袋をはめて登り始めた。師匠は「何も考えるな。身心をリラックスして、口の中で南無大智文殊菩薩と唱えなさい」と言った。私はもちろん言われた通りにした。普段、黛螺頂には何度も登っていたが、半分まで登ると必ず息切れしていた。しかし今回は、登れば登るほど気持ちが良くなり、まるで平らな地面にうつ伏せになって何度か叩頭したかのように楽だった。半分まで登ったとき、数人の観光客が私のそばを通り過ぎ、そのうちの一人が「可哀想に、綿入れがすっかり濡れている」と言うのが聞こえた。別の一人は「こんなに辛い思いをして、いったい何の為なのか!」と言った。それを聞いて、私は立ち上がって「辛くなんかない、気持ちいいんだよ」と言いたくなった。
全身のエネルギーが、氷河が解けていくかのように甦ってくるのを感じた。全身がぽかぽかと暖かく、身心ともに伸びやかになり、自然と顔がほころんだ。頂上に着いてから、自分の呼吸が長く深くなっていることに気づいた。まるで一度禅定に入ったばかりのような呼吸で、自分の目の中にも、口の中にも、耳の中にも、蓮の花が一輪一輪と咲いているのが見えた。
それ以来、苦行に励む修行者を見ると、私は必ず心から称賛し、彼らに随喜するようになった。彼らの覚受は、私たちには永遠に理解できないかもしれない。どんな法門であれ、自分に合ったものが最も良いのだ。
その後、私は弟と友人と一緒にチベットへ行った。ポタラ宮で宗喀巴大師にお会いし、大師は私にいくつかの密宗の法門を解説してくださった。密宗の伝密の部屋の前を通りかかったとき、私は笑いながら宗喀巴大師に尋ねた。「本当に伝えられる密があるのか?」大師は言った。「本当に密法はある。信じないなら、入ってきなさい。私が密を伝えてあげよう。」私は大師に従って部屋に入ると、大師は私の向かいの座に座っていて、私が大師の前に立つと、大師は突然、非常に荘厳な様子になった。私も瞬時にその場の気に染まり、非常に恭敬な気持ちになった。すると大師の口から、ゆっくりとこう言葉が紡ぎ出された。「無貪――――無瞋――――無痴――――無慢――――無疑」。その言葉が二文字ずつ紡ぎ出されるたびに、私は頭のてっぺんから足の先まで、ざっと滝のような白光で洗い流された。大師が唱え終わると、私の身心は雪のように真っ白に輝き、心は静寂で安らかになり、全身全霊が徹底的に浄化された……
ある時、禅定の中で、私はヒマラヤの奥深くに入っていった。そこには二本の円錐形の氷柱があった。とても滑らかで、柱の真ん中は空洞になっており、上に口が開いていた。中に人がいることを気づいた私は、上の口から入って訪問した。果たして、中には一人の修行者が座っていた。彼は私に会えてとても喜び、とても親しげに私にいくつか質問した。彼は、向こうの氷柱の中にいるのは自分の兄で、二人とも密宗の大手印を修行しており、ここに三百余年間いるのだと教えてくれた。中の温度は、息を吐けばすぐに氷になるほどだったが、私たちはとても意気投合して話した。その頃、私はちょうど心輪を転化している最中で、胸がとても痛かった。彼は私を見て言った。「脈毒が心を侵さないよう気をつけなさい。あなたはエネルギーが不足している。」それから彼は私に手を伸ばすように言い、自分の掌を私の掌に当てた。すると彼の体内から、強い電流のようなものが瞬く間に私の全身を駆け巡るのが見えた。
それがおよそ三十分ほど続いた頃、彼は突然掌を収め、弱々しい息で私に言った。「私は今しがた、自分の中のエネルギーをすべてあなたの脈道に注ぎ込んだ。あなたが一日も早く円満に達し、広く仏法を弘めるように。」私は大いに驚き、しばらく何と言ってよいかわからなかった。彼はまた笑って言った。「何でもない。私も本来、近日中に円寂するつもりだったので、このエネルギーは私にはもう大して役に立たない。私は行くが、悪いけど、向こうへ行って兄に一言伝えてくれ。」あっという間に私は向こうの氷柱の中にいて、中の人に言った。「あなたの弟さんが円寂される!」それを聞いたその人は、空中に跳び上がり、柱の外へ消えていった。しばらくして、彼は戻ってきた。少し沈痛な表情を浮かべて。彼は恨めしそうな目で私を見て、口の中でこう呟いた。「行く前に一言も告げずに。」私は悲しくて、先ほどの状況を彼に詳しく話した。彼はそれを聞いて長いこと沈思し、こう言った。「悲しまないでくれ。これは君のせいではない。私たち兄弟は君と縁がある。私たちはもうこの世に三百余年もいて、そろそろ去るべき時だ。去る前に君の修行の少しでも役に立てて、私たちはとても嬉しい。」言い終えると、彼は突然跳び上がって空中で逆立ちし、頭のてっぺんを私の頭に押し当てた。私はふと彼の意図を悟り、止めようとしたが、もう遅かった。私の頭は彼の頭とくっついてしまったかのようで、私にはどうすることもできなかった。彼のエネルギーが怒涛の勢いで彼の頭頂から流れ込んできた。ほんの数分で、彼は私の頭の上から身を翻して降りると、結跏趺坐のまま円寂した。私はじっと彼のそばに座り、心は波立っていた。ようやく心が落ち着くと、私は心の中で師匠を念じた。師匠が氷柱の外に現れた。師匠は先ほどの出来事をすべてご存じだった。師匠は私に、氷柱に向かって何度か叩頭するように言われた……ヒマラヤではこのほかにも何度か不思議な出会いがあり、今も思い出すたびに感動で胸がいっぱいになる。また、私はいつも自分が人のために捧げてきたものが少なすぎると感じる。私がチベットの地に滞在したのは二十日余りだった。
チベットから戻ってから、私の生理的転化はかなり激しかった。最も苦しかったのは、喉の気脈が開通し転化していくことだった。私は床に伏したまま起き上がれず、全身に力がまったく入らず、話すこともできず、食事もできなかった。水を飲むだけでも、鋼の刃で自分の喉や食道を切り裂かれるかのようだった。私は手振りや文字で、家族に心配しないでほしいと伝えた。毎晩、真夜中の子の刻になると、私の両方の肺葉の気脈が突然膨張し、まるで空気入れで突然肺に空気を送り込まれるかのようだった。そんなとき、私はすぐにしゃがむか、ベッドの上で半跪(はんき)の姿勢をとらなければならなかった。その苦しみは言葉に尽くせないほどだった。師匠がそばで励ましてくれなければ、あまりの辛さに自分は崩れ落ちてしまいそうだった。この状態が半月ほど続いた後、突然、すべての症状が一夜のうちに消えた。私は精力がみなぎり、全身が軽やかになった。朝、また居間の座布団の上に端座したとき、感激のあまり涙が溢れ出た。ついにまた座禅ができるようになったのだ。当時、私が住んでいた建物の隣には発電所があり、毎朝三時から大きな煙突から排ガスが排出されるため、我が家の朝の空気は最も悪かった。しかしその日、座禅していると、あの刺激臭が私の鼻腔に入ってきた時、私はふと、これらの匂いが転化していることに気づいた。それらは私の喉で清涼でほんのり甘いものに変わり、まるで純酸素を吸い込んでいるかのようだった。私の肺は浄化装置のようになった。私は興奮してこの知らせを師匠に伝えたが、師匠はさして気にした様子もなく言った。「喜ぶのはまだ早い。君の喉の気脈はまだ転化し終わっていない。脈輪は三分の一しか開いていない。また塞がる脈道もあるだろう。それはまた後で話そう。」
耳の気脈の転化はそれほど苦しいものではない。まず後頭部の玉枕のあたりが痺れて張ってきて、座禅中に耳の中から爆発音やチュンチュンという鳥の鳴き声が聞こえ、両耳の聴力が落ちて鈍くなる。時には座禅中、耳の中から円錐形の光が放たれ、逆さまになった様々な影像も見える。ある時、禅定の中で文殊菩薩様が一人の童子を連れて、私の耳根を洗ってあげようと言って来られるのを見た。その童子は鉢に水を一杯捧げ持ち、文殊は老僧に姿を変え、何を使ったのか分からないが、それを私の耳に差し入れて洗ってくれた。私の耳からは、しきりに粘り気のある汚らしいものが流れ出るのが見えた。文殊が使った水は、ちょうど西方極楽世界から取って来たばかりの八功徳水だった。その時、ちょうど二人の老人がこの辺りを通りかかり、私に近づくか近づかないかのところで鼻を押さえて立ち止まった。そして「なんと臭いのだろう!」と言い、嫌悪の目で私を見た。それを聞いた童子が二人の老人に「無礼であってはならない」と言うと、二人の老人はそれ以上何も言わず、ただ鼻を押さえて静かに傍らに立って見ていた。文殊菩薩様は三十分ほど洗ってからお帰りになったように思う。出定するとたちまち心身が爽やかになったが、耳の中は少し痛んだ。数日後、私は道端に立ってタクシーを待っていた。すると突然、街中のあらゆる雑音が、すべて私の好きな海潮音に変わった。目の前を行き交う車も人も、ビルもすべて蜃気楼のようになり、自分自身までもが一枚の絵になった。私は静かに立ち尽くし、心身は海潮音の中に溶けていき、時間の流れも分からず、空間の概念さえも超えていった……
私は禅定の中で、様々な法門をいずれも速やかに成就できたが、自分では、生理的な気脈の転化はやはり一歩一歩進んでおり、しかも非常にゆっくりだと感じていた。これまでのところ、私の生理的転化の法則を、ここで簡単に書き留めておきたい。座禅を始めたばかりの頃、私はただ様々な境地の中で学び、遊んでいた。(これは私の宿世の因縁と師匠の助けによるものだと思う。)師匠たちが伝授してくれたものを学び終えた後は、かえって普通の人の座禅体験と変わらない。ただ、私はすぐに光の段階に入り、境界や念はますます少なくなっていった。ほとんどの時間、私は如如不動の白光の中にいた。時には、自分が光になってしまったように感じ、書物に説かれているような脈道は何ひとつ見えなかった。しかし時には、座禅中に自分の座布団が見えることもあった。私は白光、あるいは何の色もない光の中にいた。そうして一年余りが過ぎてから、ようやく自分の身に中脈、左脈、右脈が現れたのをぼんやりと見えてきた。自分の臓器、四肢、百脈が見え、心臓の鼓動が雷のように聞こえた。血液の流れる音は、小川がさらさらと楽しげに歌うかのようだった。地球が回転する音、宇宙の空霊のこだま、自分の呼吸の音も聞こえた。そして、自分の全身の毛穴から発せられる臭気を嗅ぎ、この人身は実に粗末で耐え難いものだと感じた。この時期はひどく厭世的になり、強い出離心が生じた。禅定の功夫が深まるにつれて、私の意念はますます集中するようになった。前述のようなことに妨げられることはなくなったが、それでも念は生じた。ある日突然、自分の肺呼吸が止まったのを感じた。それは、私の頂輪と下腹に亀息と胎息が繰り返し現れたためだった。しばらくすると、頭頂にしきりに清涼を感じるようになった。おおよそ数分おきに一度である。さらに進むと、胎息は消えた。一つの気が胸椎のあたりに留まっているようだ。それは中脈の中ではなく、脊柱の中にあった。この一つの気は凝り固まって動かず、食べず、飲まず、呼吸もせず、長く坐っていても構わないのようだった。呼吸が止まってから、雑念も生じ得なくなった。胎息が生じてしばらくすると、拙火が開き、下腹が温かくなる。この時、日頃の観照の功夫(すなわち、起心動念をしっかりと捉えていること)が禅定の功夫と相まって、暖相が現れるのに伴って真息が発動し、ただ、脈道全体がもうもうと立ちこめる真炁で満たされているのを感じる。全身がぽかぽかと柔らかく、この上なく心地よい。同時に、この上ない歓喜心が生じる。これは私の修証における生理的変化のほんの一部である。これは、誰の修証にも現れるものだと思う。生理の転化は心理の転化をも促し、それによって習気が浄化され、智慧が開かれる。そして、転化をもたらす生理的エネルギーの集積をもたらすのは、禅定の功夫のほかに、さらに重要なこととして心量の広大さである。かつて仏経に「一つの毛穴の中に一つの世界がある」と記されているのを見たことがあるが、私はこの境地を理解できなかった。そんなことになったら、身体はどれほど大きくなければならないのだろうと思った。しかも、一瞬のうちにそれぞれの毛穴やそれぞれの世界の様子が見えるなどということが、あり得るだろうか、と。ところが、ある禅定の中で突然この境地を親証した時、私は自分が一つの大きな大円鏡になったように感じた。自分の肉体の毛穴の一つ一つの中に、一人の金剛が坐っていたり立っていたりするのが見え、一人ひとりの金剛の表情も動作も、はっきりと見えてきた。三千大千世界を見渡すことは、まさに掌中の果実を見るかのように一目瞭然だった。大切なのは、自分の身体が大きくなったのではなく、心量が太虚を包容したのだと、初めて知った。心量は、その大きくは外に限りなく、その小さくは内に限りがない。以前は仏経の記述を目にしても、いつも過眼の煙雲のように流し去っていた。しかし、一度の実証が私に一生の宝をもたらした。その時、この肉体という名相が実に仮我であり、真我の本来の面目を識ったのだと、真に知った。禅宗の公案、「尼姑はもともと女でできている」とか「鼻の穴はもともと下を向いている」といった類の公案が豁然と開けて分かり、思わず大声で笑った。その時、定から出て、私は泣いた。恩師に感謝し、諸仏菩薩の慈悲に感謝する!
2001年師匠から広州に行ってくださいという知らせが来た。今回は期間の決まりがなく、ただし、たぶん期間が長いと心に分かっている。友人が私に言った。「この数年、お前は修行に打ち込んで、家族の為に捧げたものが少なすぎる。今度は広東へ行くという。千里も離れたところへ行けば、両親にお前のことを心配させ、気にかけさせることになる。古い言葉に「父母在(ふぼあ)れば、遠く遊ばず」とある。そんなことをしてお前はあまりに自分勝手ではないか」と。私は彼にこう言った。恩返しには多くの方法がある。私は両親と二十数年間一緒に暮らしてきたが、両親は私がそばにいるからといって、悩みが止むことも、苦しみが止むことも、病の痛みに苛まれることが止むこともなかった。私は何度も、両親が悩みの渦の中で藻掻くのを見ながら、どうすることもできなかった。二人とも六十代で、命もいくばくもない。彼らが臨終の時に、望みどおりの極楽世界へ往生できるかどうかは分からない。私は因果を深く信じている。私の親孝行は、両親を生生世世の輪廻から解脱させ、生まれ変わってももう悩むことのないことだ。そう言うものの、出発の時、年老いた両親と幼い子どもを見て、私は心の中で静かに葛藤した。私にできるのは、自分の修行のすべての功徳を彼らに回向し、私を助け、愛を与えてくれた人々に回向することだけだった……
私は広州の町の広大さと包容力を感じ、この町を好きになり始めた。
広州では、私は医者として皆と結縁した。半年後、私は発心して広東省のとある寺院へ行き、道場を建てるのを手伝おうとしたが、さまざまな事情があって願いは叶わなかった。私は思った。発心は善いものだったはずなのに、なぜ諸仏菩薩は加持してくださらず、逆縁が成熟したのか。自分の起心動念をよくよく観照してみると、自分が「縁」に執着していたことに気づいた。自分は幾人かの師匠たちと縁があると思い込み、その寺院もまた自分好みの道場だったのである。ひとたび執着すれば、自分の心念はすでに道から逸れている。逆縁が成熟するのも当然だった。以前は「道のある」場所こそが道場だと思っていた。実はそれは「縁」に偏り、清浄や荘厳に偏り、形ある修証、有為法に偏っていたのである。寺院から外へ出た瞬間、私は悟った。三千大千世界のどこでも道場であり、どこでも道の顕れである。「一花一世界、一葉一如来」。以前にも唱えたことはあったが、あの時ほど深く体得したことはなかった。賑わいの絶えない街中に戻ると、水を得た魚のような心地だった。俗世こそが最も大きく最も円満な道場であり、つまり、泥の中からこそ聖なる蓮の花は生まれる。真に円満な人は、一念を起こせば、ただちに三界に影響を及ぼす。道場はその人の身口意の中にある。一人の人の前で法を説くのも、何千何万人の前で説くのも、変わりはない。あなたが道の顕れそのものになったなら、あなたの起心動念のすべてが説法であり、口に出せば獅子吼のごとくである。弘法というものさえなし。
今、広州には私の友人が大勢いる。彼らはほとんど決まって同じ質問をする。なぜあなたは広州に来たのか。私は時々、いくつかの言い訳を並べてごまかすこともある。しかしここで言いたいのはこうだ。もしあなたが、平等、博愛、慈悲とは何かを一瞬でも理解したなら、あなたのすべての行為は理由を必要としなくなり、もはや師匠に「なぜなのか」と問うこともなくなるだろう。修行の全過程を通じて、私たちは家庭、仕事、友人、名利など外的なものをすべて手放すことができるが、しかし最後になって、私たちは自分自身を手放せないことに気づく。我執を破る過程とは、自分が死んでいくのを目の当たりにしながら、新たに生まれ直すことである。それこそが真に円満な仏果なのだ。この境地に達するには、博愛と大慈大悲の段階に入らなければならない。さもなければ、永遠に円満にはなれない。その無我の質の中では、すべての行為はただ因縁の要請にすぎない。
今年3月、私は中国仏教最後の大道場である雲南の鶏足山を巡り終えた。私たち一行五人はまず山麓の小さな寺院である放光寺に宿をとり、翌日、華首門へ向かった。道はかなり険しく、小さな寺に着いた時には、皆へとへとになって息を切らしていた。廟門に「有求必応」と書かれているのを見て、私はおそらく中には観音菩薩が祀られているのだろうと思った。中に入って見ると、一尊の塑像は、普段寺院に祀られている観音菩薩の姿とは違っていた。どの菩薩であれ、まず祈ってみようと思った。これは私が数え切れないほどの寺院を巡拝してきて、初めてのことだった。心から敬虔に、恭しく、心に一片の雑念もなく、菩薩に父母の健康をお守りくださいと祈り、自分の修行の功徳を父母に回向したいと願った。すると突然、目の前の塑像が大いに金光を放った。空中に迦葉尊者が荘厳な法像を現された。尊者は言った。「おまえの願いを叶えてやろう!」すると、私の父母の姿も空中に現れた。尊者は山麓の八功徳水を彼らの頭頂に振りまかれた。そして影像は消えた。この時、私ははたと気づいた。私たちはすでに華首門に着いていたのだ。案の定、小さな廟の裏手こそ、迦葉尊者が留形住世して入定しておられる洞窟だった。私は洞門の外に再び静かに坐り込んだ。入定すると、洞門の前に大刀を杖にした護法が一人立っており、その左肩には一羽の白い大きな鳥が止まっていた。この鳥は迦葉尊者の使いで、よく縁のある衆生を接引して迦葉尊者に会わせてくれるのだ。洞門が開き、洞口に立っていた護法の使いが私を中へ招き入れてくれた。洞の中に入ると、洞は非常に広く、一筋の光が洞の斜め上方から差し込んでいた。私は光の方向に沿って十数歩歩いたところで、迦葉尊者が灰色の長袍をまとい、手に数珠を持ち、背が高く、とても自然に穏やかにそこに立っておられるのを見た。尊者は私が歩きながらあちこち見回すのを見て、静かに言った。「見なくてよい。私の洞窟には何もない。洞窟を出て上の方へ行けば、美味しい素斎があるぞ。」私も微笑んで、身を翻してその場を去った。
洞窟を出ると、自分がまさに空腹であることに気づいた。同行の面々もひどく空腹だった。皆で一軒の素菜館で、むさぼるように腹を満たした後、帰路につこうとした。華首門を通りかかった時、私はふと迦葉尊者に挨拶をしたいと思った。迦葉尊者が洞窟から出て来て、遠くへ遊行される様子だったので、私は尊者に別れを告げた。だが尊者は私に向かって手を振られるだけだった。「行きなさい」という意味だろう。私は内心、少しばかり不満だった。これだけ遠くから尊者を参拝に来たのに、開示のような言葉の一つや二つをかけてくれでもいいのにと思った所、迦葉尊者は私の考えをすでに分かっていた。尊者は言った。「おまえは、いつ来たのか。そして、いつ去ったのか。」私はその場に立って尊者が遠ざかって行かれるのを見ながら、しみじみと感慨にふけり、自分の習気と執着を笑った。私たちはいつも平凡の中に生きることができず、つい攀縁の心で何かを希求してしまう。平凡こそが道の真意であり、来たることもなく去ることもない、ということを分かっていないのだ。私はまた、何を名残惜しみ、何を心に引っかかるのだろうか。
ここで思い出すのは、広州に来たばかりの頃、私がまず南華寺へ六祖の真身を拝みに行ったことだ。私は恭しく六祖の真身の前に跪いて、幾度か叩頭し、そのままじっと六祖の像を見つめた。六祖がどんなお顔をしておられるのか見てみたかったのだ。すると突然、大殿の三体の肉身が三体の菩薩に変わった。彼らは私を見て、互いに微笑み合った。私は言った。「三菩薩様、こんにちは。六祖大師、達磨大師が伝えられた禅宗の心法とは、一体何なのか?」と尋ねった。六祖は微笑まれた。すると六祖の心から忽然と白光が放たれ、瞬く間に大殿全体を覆い尽くした。大殿の中に無数の輝く光子が流転し、光子の中には大小さまざまな無数の「心」の字があった。私はある強力な場に包まれ、自分がゆっくりと消えていくのを感じた。私は一つの存在になった。すべてを超越して存在していた。しかも、自分が光子とともに流転し、歓喜の流れになっていくのを感じた。光子と心が回転している。私は浄化され、洗われていた。時の流れもわからず、その状態から抜け出した時、大殿はすでに平静を取り戻していた。六祖の肉身像はまた端然と坐していて、菩薩もなく「心」もなかった。私は立ち上がり、大殿を出るその刹那、ふと名残惜しさが湧き上がり、もう一度だけ六祖の真身を振り返って見たいと思った。そして、先ほどの境地に少しばかりの疑念が生じた。まさに振り返って見たその時、六祖が自分の肉身像の背後に立ち、その肉身を供卓から蹴り落とすのが見えた。さらに手を伸ばして、頭の上の赤い幔条を引き裂いた。大殿全体が震動し、屋根から無数の埃が落ちてきた。もし私の心がもう少しそこに留まっていたら、六祖は大殿を丸ごと打ち壊してしまうだろう。私は身を翻し、ついに未練の一切ないままに立ち去った。
私の修道の体験談は、ここでひとまず筆を置くことにする。私はこの過程で得た感悟や、何を得たかについては書かなかった。ただ、自分の見たこと、聞いたこと、そしていくつかの生理的な体験を、ありのままに書いただけだ。人はそれぞれ根機が異なる為、境地や体験も人によって異なる。そして一人ひとりが唯一無二であり、あの法門のほうが優れているとか、あの人の修道体験のほうが素晴らしいということもない。十数年にわたる修道の道のりは、ただ私に、真の平凡さとは何かをますます深く分からせてくれた。それゆえに狂心は頓に歇み、より一層地道に働き、生活し、学び、全く今この瞬間を生き、全身全霊で生命の一瞬一瞬を味わっている。私にとっては、目を開けても閉じても境地であり、この修証すべき「我」も、あの証得される「果」も、四禅八定も、すべては虚妄の境地にすぎない。心に分別がなければ、縁に随って自在であり、その時に初めてあなたは永遠の真義を真に知るのである。修証する同道の皆さんには、何かを急いで肯定したり否定したりしないでほしい。また、他人の修証の結果を軽々しく自分の見地とすることもないようにしてほしい。本当に一つの法門を選んで学び、身心を深く打ち込んで実証してほしい。必ず自分自身で法味を味わってこそ、真実の受用を得られるのだ。(完結)