第二部 在家者の修行体験
功徳は修行者の資糧である。功徳がなければ、私たちの修行の道には障害が多すぎ、身の回りはほとんど逆縁ばかりで、法・侶・財・地のいずれにおいても、他人からの助けを一切得られない。「私はよく善事をしているのに、それでも障害があるようだし、良い報いも得られない」と言う人もいる。実はそれは、あなたの行う善事があなたの業力を相殺するにはほど遠く、あなたの積む善業がまだ少なすぎる為、善縁の功徳が成熟しないだけのことだ。実に、修証の全過程において、私たちは絶えず功徳を積み続けなければならない。「善は小なりといえども為さざることなく、悪は小なりといえども之を為すことなかれ」。そうしてこそ、最終的に自分の功徳を円満にし、修行を円満にすることができるのだ。
布施、持戒、忍辱、禅定はすべて功徳を積むことであり、この功徳を積んだ結果、私たちは仏の智慧を得る。仏の智慧によって、私たちは自分が真にすべてを有していることを知り、それによって生命の最大の満足を得る。狂心は頓に歇み、こののち心安らかになる。
布施には内布施と外布施の二種類がある。内布施とは簡単に言えば、自分を大切すること。暴飲暴食、時間を守らずに食事や睡眠をすること、さまざまな快楽や刺激に夢中になること、不規則な生活、過度の飲酒、薬物の摂取、怒りや煩悩などは、すべて私たちの肉体に損傷を与える。私たちはよく怒って肝を傷め、常に焦って怒りを爆発させて心臓を傷め、時間を守って食事をせず、よく噛んでゆっくり食べないことで脾胃を傷め、生活が不規則で、性欲に節度がなく、乱交することで腎と生殖器系を傷め、時間を守らずに起居し、思い悩みすぎることで脳への血液供給が不足する、等々。これはほんの簡単に述べっただけ、私たちの中で本当に自分を大切に扱う人は少ない。そうであるがゆえに、私たちの功徳は減じられてしまうのだ。
外布施とは、私たちが持っているすべてのものを無償で衆生を助けること。あなたの微笑み、あなたの愛心、あなたの作務、あなたの熱意、あなたの良い気分、あなたのお金、あなたの善巧方便、技能、仏法に対するの見地を本当に助けが必要としている人や動物、植物に布施し、さらには三界の衆生にまで広げていく。外布施は、布施する量の多い少ないではなく、あなたの誠実さ、誠心誠意尽くすことに重きがある。もちろん、出家者に供養することや、寺院を建立することも外布施に含まれる。
布施は功徳を積むことができる。
持戒には心戒と身戒の二種類がある。心戒とは、直接に起心動念から着手し、覚照を起こすこと。自分の起心動念を観察し、自分の貪瞋痴慢疑を修証し、少しずつ自分の習気を取り除いて行く。実はこの過程には布施・忍辱・禅定も含まれている。だからこそ、この過程で積む功徳が最も大きい。
心戒を守る時、私たちには習気と欲望がある為、最初はまだ自分の起心動念を修証することができないが、その場合はまず、自分の心を善く用いることである。例えば、あなたが医者なら、一人ひとりの患者が診察に来るたびに、その人を自分の家族だと思い、自分の家族がこれほど重い病気にかかったら、あなたはどうするの。すると、あなたの心からの気遣い、身に染みる痛み、あなたの愛が自然と表に現れてくるだろう。患者はどんなに愚鈍でも、それを感じられるのだ。大部分の患者は心が焦燥不安で、医者の温かさを感じ取れば、医者に心を開き、医者を信じるようになる。そうすれば、治療の際に、その信頼によって薬の吸収がより良くなり、病状もより早く回復するかもしれない。
このように医者になったら、功徳を積むことができる。たとえあなたが修行をしていなくても、医術も高くなくても、最低限の報いとして、多くの世において身体健康でいられるだろう。なぜなら、あなたが心を込めて多くの人の病を治し、いつも人の身体健康を願う心を起こしているからだ。これを類推して、例えばあなたがいつも真心で人に随喜し、人が楽しくあることを願うなら、功徳が一定の程度まで積み重なると、自分がいつも春風のように晴れやかで、些細なことで悩むこともなく、楽しい時がどんどん増えていくのを感じるだろう。私たちは心を込めて観想して見て、たとえ私たちの能力は限られていても、自分の善念が増えるにつれ、私たちの貪瞋痴慢疑も次第に減っていく、自分の起心動念に対して「修せずして修する」境地に達すれば、私たちの心は自然に道の品質——博愛、慈悲、平等——にかなうものとなる。戒律も「持せずして持する」境地に達すれば、私たちはこの功徳を積む最終目的を達成したことになるのだ。
身戒とは、私たちが身体を以て実践し、行動によって自分が修行者であることを証明することだ。例えば、殺生しない、偸盗しない、邪淫しない、飲酒しない、妄語しない等々。仏法の根本の五戒は、決意して仏法を修証しようとする者が守るべきものだ。持戒は功徳を積むことができる。
忍辱とは、身近なあらゆる衆生へ寛容、忍譲、理解、随喜であり、個人の損得を気にしないことであり。忍辱は功徳を積むことができる。
禅定とは、私たちが完全に現在を生き、過去のために煩わず、未来のために焦らないことである。この功徳の果報は最も早く、ほんの一刹那の内に、私たちはこの功徳がもたらす喜悦と満足を同時に味わうことができる。禅定は功徳を積むことができる。
念仏(念とは憶念すること)と観経(心で見ることが観である)は、いずれも私たちの功徳の円満を加速することができる。