(実際、今はそんな感覚はあります。少し手放すと世界が少し開けて、心が広くなると、本当に……)
あなたがしがみつかなくなると、多くのものがむしろくっついてくる。それを無視して、どうでもいい、気にしない、というのと、見抜いて手放すのとでは、本当に境地が違う。気にしない、どうでもいい、というのは、ただ逃げているだけだ。いつの日かまた苦しくなる。
(つまり、見抜いて見破ることですね。)
中には、たとえ人によっては……中には大人になって、自然にしがみつかなくなる者もいる。年を重ねて十歳になれば、おもちゃの車に引かれたりはしない。成長すればそうなる。心がだんだん成熟して、子供の遊びに振り回されることもなくなる。中には、本当に悟った者もいる。君はその両方だと思うよ。成長もしている。
(まだまだです。動画を二回見て、本当にそんな実感がありました。深すぎます。一つは『住』についての話で、無住無着というのが実感として、本当に少し新しい気づきがありました。このコップが無になり、空になる。この空というのは、コップがすぐに消えてなくなるということではなく、心の中からそれがなくなるということです。)
それはまだ分析だ。意識のレベルで分析した空だ。そう、『どうでもいい、私が空になれば、コップも私にとって空になる』というのも、あるいは『空性』と言って、このコップを見ていると虚無になると言う人もいるが、それは手品だ。それは空性ではない。
さらに、コップは分子や原子だと言って、分析し続けてなくなってしまう、あれは分析空だ。どれも仏の証量における空ではない。
空性とは、君の心の中に、そもそも空と有という概念がまったくないことだ。君が『有』を持てば、空はいつもそこにある。君が『空』を持てば、有もやはりそこにある。二元対立のものを持っている限り、どれも破れない。 心の中でこの二元対立の層を破った人、つまりその認知の中で、証量としてこの層を破った人の心には、それが色であるか空であるかは永遠に存在しない。すでに色か空かを分別していないのだ。
色と空を分別するからこそ、君は色空不二と言い、色は空であり、空は色であると言うのだ。君の認知の中から完全に清められて、色と空という二つの概念がなくなったとき、色と空は本当に不二なのだ。つまり、そのとき、このコップが存在するかしないか、あるいは君が存在するかしないかも、すべて示現であり、その概念が完全に清められて、すべての相を破り尽くした状態なのだ。
(やはり意識の心で分析し、分別してしまうんですね。)
『色』があり、『空』があれば、不二ではありえない。それは二だ。色相があり、空相がある。分かるだろう。だから、どうやってもその中をぐるぐる回っていて、どうしても抜け出せない。どう分析しても、実は究極ではない。仏教で言うところの不了義なのだ。ひとたび破り尽くせば、色も空も破り尽くして、本当にもう理解というものではなくなり、見渡せばそのまま、君はもうその状態になっている。
(実際、今はどう言ってもはっきりしないことがあって、ある程度まで修証しないといけないんでしょうね。)
はっきり言うこともできる。だが、言っても言わないのと同じで、言っても無駄だ。言うことはできる。しかし、君がまだ理解できないからだ。何だか回りくどいと思うだろう。『どう言ってもぐるぐる回っていて、とても回りくどい』と。
回りくどいのはなぜか?『色』と言えば、君には色相がある。『有』と言えば、君には空相がある。分かるだろう。二つの相が頭の中に示現しているときに、色空不二の境地を話しても、君には理解できない。二つの相が立ちはだかっているからだ。
しかし、心の中の執着を一層ずつ手放していって、色相も破り、虚空相も破り、すべての相を破り尽くしたとき、色空不二と言えば、君は『そうだよね、そんなに簡単なことなんだ』と言うだろう。君には色相もなく、空相もないのだから、空と色は一ではないか。二でありえようか。そうだろう?
二つの相がなければこそ、不二でいられる。二とは二つの相のことだ。だから、すべての相を破り尽くしたとき、それは一だ。一もまたない。なぜなら、もうそんなことは言わないからだ。そんなことを言うだろうか? すべて円満、すべて円満、真相が示現する。ただ言えるのは、すべてが円満な真相であるということだけだ。その真相を仏相と呼んでも、道と呼んでも、何と呼んでもいい。如来と呼んでもいい。
しかし、証得するかしないかでは、やはり違う。たとえば、証得していなければ、それはただの概念だ。破っても、意境的に破っただけだ。証得して戻ってくるのとは違う。意境的に破ったときには、君はこう言うだろう。この世界は円満だが、そこには垢と浄がある。ただ包容するだけだ、垢と浄を包容する円満だと。だが、証得したなら、この世界は清浄として現れる。そう、垢も浄もすべて存在しなくなり、清浄だ。もう比較しないからだ。
(そうなると、清浄は相ではなくなって、不垢不浄で、私たちのこの世ではないんですね。)
清浄もまた一切相であり、一切相になる。つまり、こういうことだ。もし君が死なず、往生せずに、まだこの場所にいるなら、この世界は君の前に常楽我浄として現れる。清浄の相だ。その相は、君に一つの相を示現する。そのとき君は気づくだろう。娑婆世界が極楽世界であり、浄土でもあると。
(その境地は涅槃として理解してもいいんですか?)
心の涅槃だ。諸相を破り尽くすことを心の涅槃と呼ぶ。そう言ってもいい。
(先生、ホーキングの弦理論についてお話しください。)
最後に科学は宇宙の起源について、大爆発の時代まで遡って、爆発によって光や音や波が生まれ、すべてが生まれたと言う。しかし、知っているか? 結局、仏教はこう言うのだ。この大爆発を誰が知るのか? 誰が覚っているのか?
つまり、こうだ。この実験、これは爆発だ。この現象が現れた。誰がこの爆発を見たのか? それはこの実験をする人だ。実は、この人の目こそが、科学が最後にたどり着いたこの一点であり、この目が最も重要で、相対的に存在しているのだ。
この爆発が現れたとき、この人が存在しなければ、この爆発は作用しない。この人、この目が、それは爆発だと認めるからこそ、それは爆発なのだ。君は相に執着している。宇宙は大爆発の中で生まれたと認める。それが認知であり定論だと言うが、それで爆発と呼べるのか?
これは宇宙の真相だろうか? 仏教では、これは錯覚だと言う。宇宙の大爆発でさえ、道教が言う無明が動くなどといったことも含めて、最後に破るとき、これは錯覚だと言うのだ。
つまり、一つの覚がある。この覚とは何か? 形も相もないものだ。この覚を消し去ることは不可能だ。たとえば私たちが打坐するとき、最初は覚にして動くなと君たちに言う。もちろん、君たちは自我のある覚を持っている。まだ分別しているからだ。だからこれは我覚と呼ばれる。覚があるから、『ああ、雑念がある』『ああ、散乱している』『ああ、また足が痛い』『ああ、また何かある』となる。
この覚の中には、いつも『私が覚っている』がある。覚受に引かれていて、他人の痛みは感じられない。だからこれは円覚とは呼ばない。君は自分のことしか感じないのだろう? しかし、この覚も、ただ動かずにじっとしていれば、ゆっくりと、気づくようになる。清め出される。この覚は、実は形も相もない一つのものなのだ。
(でも、それが覚るなら、依止するところがあるはずです。それは必ず我覚なのか、それとも他人の覚なのか。)
まずこの覚から、まずこの覚から修証していきなさい。私はずっと言っている。すべての説法は、最終的にあの形も相もないものを悟るための道具だ。すべての説法は、口に出したとたん、それは真理ではない。すでに真理ではない。なぜなら、真理は言葉で言い表せないからだ。言葉には限界がある。だから、言い表されたものは、それに依止して悟りを開くためのものなのだ。
悟りとはどんな状態か? つまり、私が今しているすべての話は、すべて、夜のうちに君たちに昼のことを話しているようなものだ。太陽が昇ったことがない夜に、私は延々と夜明けについて話す。夜が明けたらどんなふうか、夜が明けたらどんなふうか、太陽が昇り、万丈の朝焼けが射し出て、何々は赤い、何々は白い、と。
君は夜にいるのだから、理解もする。それが悟りでないとは言わない。聞いて、君も想像するだろう。『ああ、昼はそんなふうなんだ』と。しかし、この悟りは想像によって作り出されたものだ。だから、この種の悟りには力がない。分かるだろう。
君も分かっているだろう。太陽が東から昇ると私が言えば、君も夜のうちに、それはどんな境地かと想像する。想像して作り出したその境地は、悟りにとても似ているかもしれない。とても正確に想像できるかもしれない。
しかし、力がないとはどういうことか? 実際に見ていないからだ。夜のすべてがやって来るとき、君はやはり昼を捨てて、夜のすべてをやるだろう。夜のことが深く君を引きつけ、君はそれをとてもリアルに感じる。昼は君にとって幻だ。君は昼にいないからだ。
だから、仏教がぐるぐると語るすべてのものは、夜のうちに君に昼のことを話しているにすぎない。そして、夜が明ければ、すべてはそこにある。ただそれだけだ。そうだろう? 夜が明ければ、ただそれだけ。目が覚めただけなのだ。
だから、何もない。もう何も分析する必要はない。太陽が東から昇ることをどう証明するのか? 何を証明するというのか? 君は夜のうちに、夜の概念を使って太陽が東から昇ることを延々と証明する。朝、目が覚めれば……
東から昇ると信じたいから、君は延々と証明する。『東から昇るというけれど、本当か? 今日は違うと証明しよう。西から昇った。万有引力というものはどうなっているのか』と、証明に証明を重ねる。翌朝見てみれば、東から昇っている。証明はもう要らない。夜が明ければ、多くのことは、真相がそのまま目の前に現れている。そして、君のすべての概念、すべての概念は、夜を依止として築かれている。
夜が明けたとき、つまり、私が話したこれらのことは、君は想像できる。しかし、そうやって想像した境地には力がない。それは君の今の命に影響を与えられない。分かるだろう。君はそれを幻だと感じる。
証量の境地、さっき話した大爆発、最後にあの覚が消えるとき、その境地は何か? 私が言葉で語っても力はなく、むしろ君を相に執着させやすい。
(禅宗で言う悟りは、どんな境地なんでしょうか? 先生は悟りは夢から覚めることだとたとえられてきました。目覚めて成仏する。悟りの前後はどんな段階なんですか?)
段階などない。なぜなら、そもそもないからだ。悟りは心を指す。君の心は永遠に今この瞬間にある。実は過去はない。過去と未来は頭の中のものだ。覚受は今この瞬間のものだ。
君の命の中に、執着しているものがある。君は道を成そうとする。自分は凡夫だと思い、道を成そうとする。自分は凡夫だと認知する。その認知、『自分は凡夫だ』というものと、仏になる、仏となる、この二つの相の間にあるのが、君の執着だ。君が凡夫の相に執着し、仏の相にも執着しているからだ。
実は、私たち一人ひとりは、道を修めようと修めまいと、本来、如来の中にいるのだ。 君が性海の中で執着した。相に執着する執着がそこにあるからだ。まるで綱がそこで一つの結び目になっているように。だから君は衆生のようになる。衆生の相が現れているからだ。
悟りとは、こうだ。君にはいくつかの結び目があるかもしれない。突然、その結び目が解ける。それも悟りだ。君は本来、仏性の中にいる。本来、仏性の中に住んでいる。その一つの執着が解ければ、君は頓悟して成仏する。見性する。明心見性だ。
今回、開き方が徹底せず、見方も徹底しないこともある。ならば、別の結び目を解けばいい。ときには、一つの結び目が開くと、他の結び目も続いて開くことがある。それは比較的徹底している。だが、小悟というものもあって、それが開いても、他の結び目はまだのようだ。ならば悟りを続ける。
君は本来、性海の中にいる。本来、仏性がここにある。ただ、君がその中で少しばかり執着しているだけだ。執着を手放せば、君は自性に帰る。それが悟りだ。君は真相をはっきり見るだろう。君にはたくさんのもの、たくさんのものが、概念の中で振り回されていることに気づくだろう。
注:この文章は楊寧先生の教えの動画をもとに整理したものです。動画と異なる場合は、動画を正とします。動画を見る。